「アントニーとクレオパトラ」

シェイクスピア/小津次郎訳

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400円

マーク・アントニーはすぐれた武将であり、勇敢で偉大な人間であった。しかし彼はクレオパトラを恋していた。恋に酔いしれたアントニーは公事を忘れ、ローマに残した妻を忘れて日を過ごす。彼に対する非難の声は高まるばかり。妻ファルヴィアの死の報にもエジプトをはなれない彼は、完全に武将としての生活をすてて、恋のとりこになり終わってしまったかのようにみえた。…シェイクスピア後期の悲劇の代表作。
立ち読みフロア
第一幕

第一場 アレクサンドリア。クレオパトラの宮殿の一室

〔ディミートリアスとファイロウ登場〕
【ファイロウ】 いや、ひどいものだ、わが将軍の溺れようは、いかになんでも度が過ぎている。かつては三軍を叱咤(しった)した炯々(けいけい)たるあの眼光、鎧兜(よろいかぶと)に身を固めた軍神マルスもかくやと思われるほどに輝いたあの眼差(まなざし)が、いまはどこに行ったのだ、本来の役目を忘れて、ただ浅黒い顔だけを見つめている。大合戦のさなかに胸の留金を破裂させた、武人にふさわしい心臓が、すっかり自制心を失って、ジプシー女の情欲をさます鞴(ふいご)や団扇(うちわ)になってしまった。
〔ファンファーレ。アントニー、クレオパトラ、彼女の侍女、供者、数人の宦官が団扇で彼女をあおぎながら登場〕
 そら、連中がやってきた。よく見るんだな。世界を支える三本柱の一本が淫売女の道化役になっちまったんだ。見るがいい。
【クレオパトラ】 それがもし本当の愛だとしたら、どれくらい愛してくださるのか教えてちょうだい。
【アントニー】 どれくらいか言えるような愛は卑しいものだ。
【クレオパトラ】 どこまで愛されているか、限界が知りたいの。
【アントニー】 それじゃ、新しい天と地を見つけねばなるまい。
〔侍者登場〕 
【侍者】 ニュースでございます、閣下、ローマからの。
【アントニー】うるさいな手短かに言え。
【クレオパトラ】そんなことおしゃらないで、聞いておやりになったら、アントニー。ファルヴィアが柳眉(りゅうび)を逆立てているかもしれないし、ひょっとしたら、若僧のシーザーから厳命が届いたのかもしれませんわよ。「これをやれ、あれをやれ、あっちの国を占領しろ、こっちの国を解放しろ、やれといったらやるんだ、やらなきゃ厳罰に処するぞ」なんてことかもしれないわ。
【アントニー】 どうしたというんだ、あんたは?
【クレオパトラ】 ひょっとしたら! とんでもない、きっとだわ。もうここにいらしちゃ駄目。シーザーから免職を言い渡されたのよ。だから、とにかく聞いておやりなさい、アントニー。ファルヴィアからの召喚状はどこにあるの? シーザーからの、と言ったほうがいいのかしら? それとも両方からの? 使いの者を呼び入れなさい。私はまぎれもないエジプトの女王、アントニー、あなたのお顔もまぎれもなく赤くなりましたわね。やっぱりあなたもシーザーの御家来ということかしら。そうでないとしたら、口やかましいファルヴィアに叱られて、お顔が赤く染まったのかしら。使いの者!
【アントニー】 ローマなぞテヴェレ河に呑まれてしまえ。世界にまたがる大帝国の広大なアーチも崩れ落ちろ! ここがおれの宇宙だ。王国は土くれにすぎん。この汚らしい大地は人間にも畜生にも餌をくれる。人間の尊さとは、こうすることだ〔クレオパトラを抱く〕愛する二人の人間が、われらのような男女がこうすることができるなら、全世界の人間に有無も言わせず認めさせてやるぞ、おれたちは世界最高の者だと、な。
【クレオパトラ】 まあ、お上手なこと! じゃなぜファルヴィアと結婚なさったの。愛してもいないのに? 阿保の真似をして、気のつかないことにしておきましょう。いずれアントニーもアントニーらしくおなりでしょうからね。
【アントニー】 クレオパトラのおかげでな。いや、もういいだろう、愛の女神と楽しい恋の逢瀬にかけて、耳ざわりな口論で時間を空費するのはよそう。片時も無駄にはできぬのだ。いつも何か楽しみを作り出さねばなあ。さあ、今夜の楽しみはなんだ?
【クレオパトラ】 使いの者に会っておやりなさいまし。
【アントニー】 またそれを言う、こわいひとだ! しかしあんたにはなんでも似合う、怒ってよし、笑ってよし、泣いてよし。すべての感情があんたの中で、一生懸命に美しく見事になろうとする。使いの者になど会わん。もっとも、あんたのお使いなら別だがな。今夜は二人っきりで、街を歩いて民情視察といこうではないか。さあ、女王。ゆうべそうしたいと言ったろ。

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