「ソクラテスの弁明」

プラトン/戸塚七郎訳

ドットブック版 108KB/テキストファイル 52KB

300円

「無知」の自覚にもとづき自他を吟味しつつ生きたソクラテスは、「不敬」の罪で告発されて法廷に立った。そのときの「死をまえにしての弁明」を記した古典期ギリシアの哲学者プラトンの代表作。

プラトン(前427〜347)古代ギリシアの哲学者。ソクラテスに学び、その死後、各地を遍歴、アテナイに戻って学園アカデメイアを創立した。その著作のほとんどは師ソクラテスに範をとり、対話によって真理に近づこうとする対話編という形式をとっている。代表作にこの『ソクラテスの弁明』のほか、『饗宴』『国家』『法律』など。

立ち読みフロア
 アテナイ人諸君(*)、君たちの気持ちが、私の告発者たちの言葉でどのように動かされたか、それは私には判らない。だがそれはどうあれ、とにかく当事者であるこの私が、彼らの言葉のために、あわや自分自身が誰であるかを忘れんばかりであったのである。それほどに、彼らの言葉にはもっともらしい響きがあった。しかしながら、真実ということになると、彼らはなに一つ述べなかったと言ってよいであろう。
(*) 通常、法廷で用いられる呼びかけは「裁判官諸君」である。にもかかわらず「アテナイ人諸君」と呼びかけたのには、もしソクラテスの言葉が空とぼけでないとしたら、法廷に立つのは初めてで法廷用語には不慣れであったとも考えられようが、それよりは、裁判官と称されるべきは正義に従って判決を下しうる者だけであると、との考えから、裁判官の呼称は真実に基づいて正しい判断を下す者にのみ与えるべきである、という信念によるものと見るべきであろう(それゆえ、票決の後に、無罪の票を投じた人々に対し、初めて裁判官の呼称を用いたのである)。それまでは、当時の裁判官の性格上、このような呼びかけのほうが正しいと考えられたのである。因みに、この頃の裁判官というのは、現在のような専門職ではなく、大衆の中から選ばれた、いわば陪審員のごとき性格のものであった。すなわち、裁判官(ディカステース)は、十ある部族から、年令三十歳以上で市民権剥奪などの刑を受けたことのない市民が同数ずつ選ばれて構成されたのである。その規模は裁判によって異なるが、最高六千人のものもあったと伝えられている(アリストパネス『蜂』六六一、アリストテレス『アテナイ人の国制』二四)。ソクラテスの場合は五百人の裁判官によって構成されていたが、判決は投票によるため、同数になるのを避けて五百一名がその席についた。

 彼らが虚偽の申し立てをしたことは数多くあるが、その中でも特に、彼らについて開いた口のふさがらなかったことが一つある。それは、諸君はこの私によって欺(あざむ)かれないよう十分注意しなければならない、と言っている件(くだり)である。それはまるで、私を、弁舌にかけては凄腕(すごうで)であると言っているかのようであった。どう見ても私が弁舌の達者な人間でないことは、今にはっきりするであろうが、そうなれば即座に私の手で、事実をもって反駁されることになろうに、その点にはなんの恥らいも感じていないというのは、彼らの最も無恥厚顔なところである……こう私には感じられたのである。もっとも、これらの者が凄腕(すごうで)と称するのが、真実を語る者のことであるというのなら、話はまた別である。もしそのような意味で言っているのであれば、この私は、弁論家としては、彼らなど及びもつかぬほどの者である、と認めることであろうから。〔この章の終わりで、弁論家の徳(優秀性)は真実を語ることである、とされている〕
 ともあれ、彼らは、私に言わせれば、真実を一つも語らなかったと言って差し支えないが、しかし私からは、諸君は真実のすべてを聞くことになるであろう。とは言っても、アテナイ人諸君、お断わりしておくが、諸君にお聞かせすることになるのは、彼らの言葉のように美辞麗句(びじれいく)をまとい、美しく飾りたてられたものでは決してない、これは神かけて誓ってよい。それはむしろ、思いつくままにありきたりの言葉で語られるものである。というのも、私は、自分の言わんとすることの正しさを確信しているからである。だから、それとは違った弁論を期待しないでいただきたい。そうであろう、諸君、私のような年寄りが、諸君の前に出るのに、腕白小僧のように言い訳をでっち上げるというのは、年甲斐もないだろうから。
 それからまた、アテナイ人諸君、次のことも諸君にぜひお願いし、了解を得ておきたい。それは、私が弁明する際に諸君が耳にされる言葉というのが、市場の両替屋の帳場〔両替屋は市場(アゴラ)の中にあり、多くの人々の溜り場になっていたらしい。日本なら、さしずめ床屋の店先ということであろう〕その他で話す時に、いつも使いなれている言葉であっても(そして実際に、諸君の多くは、そのような所でこのような言葉を耳にされたことがある訳だが)、そのことで驚いたり騒いだりしないでいただきたい、ということである。つまり、それにはこういう事情があるのである。私は七十になるこの齢まで、裁判所に出頭したのはこのたびが始めてである。だから、ここでの言葉使いには、まったくの他国者(よそもの)である。かりに私が正真正銘の他国者であったとしたら、私がその中で育てられてきたお国言葉で、そしてその言葉使いで話したとしても、おそらく諸君は私のことを大目に見てくれることであろうが、それと同じように、今の場合も諸君にこう要求してしかるべし、と思っているのである。すなわち、言葉使いがどうであるかということは、それが相当ひどいものであるかもしれないし、また、ひょっとしてかなりよいものかもしれないが、それは放っておいて、ただ、私の述べることが正しいかどうか、その点だけをよく調べ、この点だけに注意を払っていただきたい。なぜなら、裁判官にとっては、このことがその徳(優秀性)というものであり、弁論をする者にとっては、真実を語ることがそうなのだから。


……冒頭より


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