arabia4.jpg (42381 バイト) 「千夜一夜物語(2)」

リチャード・バートン編/大場正史訳

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1400円

十字軍初期の時代を背景に三代にわたって繰り広げられる「オマル王の物語」。戦記あり、武勇談あり、悲恋物語あり、悪党、妖婦、野心家、好色家など、多彩な人物が入りまじって躍動する一大歴史ロマン。
立ち読みフロア
 ……そこで、母はてまえを風呂へやり、いちばん素晴しい新調の衣服をとりよせました。風呂からあがると、てまえはその衣装をまといましたが、ぞんぶんに香がたきこめてあったので、道すがら馥郁(ふくいく)としたかぐわしい匂いがあたりに漂いました。てまえは回教の大伽藍(がらん)へお参りするつもりだったのですが、途中で、ふと、ある友だちのことを思い出し、友だちの家のほうヘひき返しました。「そうこうしているうちに、かれこれ会衆の礼拝の時刻になるだろう」とてまえは心のうちで考えました。
 歩きつづけていくと、ついぞこれまで足をふみ入れたことのない露地に出ました。風呂からあがってすぐ新調の晴れ着を身につけたせいで、ぐっしょり汗をかき、流れ落ちんばかりのありさまです。着物にたきこめた香の匂いも相変わらずあたりに漂っておりました。それで、てまえは通路(みち)の奥の片隅にある石の腰掛に、手にしていた刺繍のあるハンカチをしいて腰をおろしました。暑さはしだいに加わって、やりきれないくらいになり、額からは汗がにじみ出て、玉となって頬をしたたり落ちるのですが、ハンカチをお尻にしいているので、顔をぬぐうこともかないません。
 しかたなく、着物の裾(すそ)を手にとって、頬(ほお)の汗をぬぐおうとすると、思いがけなく上のほうから、まっ白なハンカチが一枚落ちてきました。朝のそよ風よりも肌ざわりの柔らかい、見た目にも快いハンカチでございます。てまえはそれを手にすると、顔をあげて、どこから落ちてきたか見さだめようとしました。と、そのとたんに、ハンカチの持ち主である女と瞳がかちあったのでございます。

 ……シャーラザッドは夜がしらんできたのに気がついて、許された物語をやめた。

 さて第百十三夜になると

 おお、恵み深い王さま、とシャーラザッドは語った。若者はさらにタジ・アル・ムルクにむかって物語をつづけました。
 そのハンカチがどこから落ちてきたか見さだめようと思って、顔をあげると、そのとたんに、持ち主である女と瞳がかちあいました。なんと! その女は真鍮(しんちゅう)の格子のついた小窓からのぞいているではありませんか。あんなに美しい女をてまえはまだ一度も見たことはございません。全く、言葉などではとてもあの女の美しさを言いつくせるものではありません。女はてまえがじっと見まもっているのを見ると、人さし指を口にあて、それから人さし指に中指を添えて、乳房のあいだの胸の上におきました。それから、頭をひっこめて小窓の扉をしめると、姿を消しました。
 このさまを見ると、にわかに恋情の炎がぱっと燃え、しだいに燃えさかって、胸の痛みはだんだんに激しくなってまいりました。たったひと目見たばかりに、千度も吐息(といき)をもらし、途方にくれてその場に立ちつくしていました。と申しますのも、相手の女はひとことも口をききませんし、そのそぶりがどんな意味なのかさっぱりわからなかったからです。
 てまえはもう一度窓をふりあおぎましたが、扉はとざしたままで、辛抱強く夕刻まで待ってみたものの、物音ひとつ聞こえず、また人影ひとつみえませんでした。とうとう二度と会えないものとあきらめて、立ちあがると、例のハンカチをひろいあげて、あけてみました。すると、麝香(じゃこう)の芳香がぷんと匂って、心がうきうきとなり、まるで天国にでもはいったような気がしました。ところで、ハンカチを目の前でひろげたとたんに、ぽたりと中から落ちたのは小さな巻紙でございます。えもいわれぬ香を焚(た)きこめたその紙をひらいてみると、中にこんな対句がしたためてありました。

  わたしは送った、かの人に
  恋の悩みを書きしるし、
  みずぐきのあと美しく
  ほそぼそしるした恋文を。
  書は人がらを表わせば、
  友がたずねて、「君はなぜ
  かくもほそぼそ、読みにくく
  細書(ほそがき)するか」と問うならば、
  わたしは答えて申します、
  「やつれ、細ったこの体、
  恋の御意(ぎょい)なら、恋人の
  筆の跡とてかくなるは、
  せんないものと知りたまえ」

 ハンカチの歌の文句を読むと、胸の情火は急に燃えあがって、恋いこがれるせつない思いに、うずくような痛みはいよいよひどくなるばかりでございました。

……「アジズとアジザーの話」より


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