「千夜一夜物語(9)別巻」

バートン編/大場正史訳

エキスパンドブック 1499KB/テキストファイル 402KB

1400円

絢爛たるアラベスク「アラビアン・ナイト」完結! バートンは最も信頼のおけるマックナーテン版の完訳(本デジタルブック版1〜8巻)をおこなったが、他の原典にも数多くの面白い物語があるところから、別巻をつくりあげた。本巻は、そこからさらに訳者が選んで訳出したもので、「アラジン」や「アリババと四十人の盗賊」「道化者ハサン」など、のちに非常に有名になった物語の数々がふくまれている。

リチャード・バートン(1821〜90)英国生まれアイルランド系の破天荒な探検家、東洋学者。幼いときイタリア・フランスで過ごしたこともあって語学的天分に恵まれ、修めた外国語は35カ国語にものぼる。とくにアラビア語、ペルシア語、ヒンドゥー語をはじめとする東洋諸語では、他の追随を許さないほど堪能だった。インド・アラビア・アフリカ圏の前人未到の地をヨーロッパ人としてはじめて幅広く探検、タンガニーカ湖の発見など探検史にのこる足跡をのこした。なかでも回教徒に偽装してメッカ巡礼を果たしたときの見聞記「メッカ巡礼」は、アラビアの風習、宗教、自然の生彩ある筆致によって大評判をとった。こうしたアラビアに関する百科全書的な知識をバックに、情熱を傾けてなったのが「千夜一夜物語」全17巻の翻訳だった。

立ち読みフロア

 いまは昔ハルン・アル・ラシッド教主の御代、バグダッドの都にある商人が住んでいて、アブ・アル・ハサン・アル・ハリア(つまり道化者のアブ・アル・ハサン)と呼ぶひとりの息子がありました。
 父の商人が莫大な遺産をのこしてみまかると、あととりの伜《せがれ》は遺産を半々にわけて、半分はとっておいて、あとの半分を使うことにしました。そして、ペルシャ人や商人の息子連中とつきあい出して、飲み食い三昧の遊興にふけったので、手もとにあったさしもの大金も、一銭残らず、きれいに使いはたしてしまいました。
 そこで、アブ・アル・ハサンは友人仲間や飲み友だちのもとへ出かけて、懐中が無一文になったことを打ち明けて、窮状を訴えました。ところが、だれひとりそんなことに頓着する者もなく、ろくに返事さえするものとてありませんでした。すっかりしおれきって、アブ・アル・ハサンは母親のもとへもどると、一部始終のてんまつを語り、友だちのひどい仕打ちやら、お金をくれるどころか、言葉さえかけてくれなかったもようなどを話しました。すると、母親は言いました。「これさ、アブ・アル・ハサン、当世の人間はみんなそうしたものさ。お金があれば、ちやほやしてくれるが、すっかんぴんになりゃ、よせつけないんだよ」
 母親がしきりと慰めれば、アブ・アル・ハサンは身も世もなく嘆いて涙を流し、こんな歌をうたいました。

 銭がなくなりゃ、助けちゃくれぬ、
 銭がふえれば、情けも深い。
 銭ゆえやさしい 多くの友が
 銭がなくなりゃ、敵になる。

 やがて、若者はすっくと立ちあがると、残り半分の遺産をしまっておいた場所へいって、これをとり出し、なに不自由なく暮らしつづけました。そして、これまで知りあった連中とは二度とつきあわずに、見ず知らずのあかの他人とだけ交際し、それもたったひと晩かぎりもてなして、一夜あければ、そしらぬ顔をしよう、とみずから誓いを立てました。
 そんなわけで、若者は毎晩チグリス川にかかった橋の上にたたずんでは、かたわらをゆききする人々をじっと眺め、もしそれが見ず知らずの男であれば、すぐに仲よくなってわが家へともない、朝まで夜っぴて、客を相手にうち興じました。それから、客人を追いはらうと、もう二度と額手礼《サラーム》の会釈もしなければ、そばへよろうともせず、また、二度とわが家へ招きもしませんでした。
 まる一年というもの、こんなふうな調子で暮らしていましたが、ある日のこと、いつものように橋上に腰をおろして、その夜の遊び相手はいないものかと心待ちにしていると、はからずも、そこへ通りかかったのは教主と報復の剣士マスルールの主従ふたり。どちらも日ごろのならいで、商人姿に身をやつしていました。
 アブ・アル・ハサンはふたりの様子をとくと眺めて、立ちあがると、相手の正体を知らなかったので、こう言葉をかけました。「いかがでしょう? てまえの家までご同道願えないでしょうか。酒肴《しゅこう》の用意はちゃんとできておりますので、飲み食いのほどはご随意。皿焼きのパンも肉の料理もあれば、漉《こ》したお酒もございますが」
 教主はその申し出を断わりましたが、アブ・アル・ハサンはしきりに頼みました。「もし、旦那さま、後生ですから、つきあってください。今夜はぜひあなたにお客人になっていただきたいので。せっかくあてにしたものを、むげにいやとおっしゃらないで」
 若者がさかんにかき口説いたので、とうとう教主は承諾しました。アブ・アル・ハサンは大喜びで、さきに立って案内し、道々しゃべりながらわが家にたどりつくと、教主を客間へ招じ入れました。ところで、アル・ラシッド教主が足をふみ入れたその客間というのは、よく見ると、数寄をこらした作りで、泉のほとりなども丹念に見ると、噴水塔には黄金をかぶせてありました。
 教主は従者を入口に待たせて、じぶんは客席につきました。すると、この家の主人はさっそく馳走を運んできたので、教主はこれをつまみました。いっぽう、主人も客に気がねなく食べてもらいたいので、いっしょに相伴しました。食事がすむと、主人は食膳を片づけて、ふたりとも手を洗いました。そして、教主がふたたび座につくのを待って、若者は酒の容器を並べ、じぶんもそばに腰をおろすと、相手の盃に酒をついですすめたり 、四方山の話をしたりしてもてなしました。
 どちらもしたたか酒盃をかさねたころ、主人はバン樹の枝もさながらの、ひとりの美しい奴隷娘をよび出しました。女はルートを手にとり、その音曲にあわせて、こんな対句をふたくさりうたいました。

 おお、わが胸に 永遠《とこしえ》に
 宿れる君よ その姿
 遠く離れて 見えずとも、
 げに君こそは 目に見えぬ
 わが心なり 遠くとも
 君はわが魂《たま》 いと近し。

 下にもおかぬもてなしぶりや礼儀にかなった作法に、ほとほと感心した教主は主人にむかってたずねました。「もし、若旦那、おまえさまはいったいどなたかな? ご身分をあかしてくだされ。そうすれば、こちらも親切なお志に報いることができましょうて」
 だが、アブ・アル・ハサンはにっこり笑って答えました。「いえ、お客さま、とても、とても。すぎた昔はかえりませんし、ふたたびあなたとおつきあいすることもかないますまい」
 真実《まこと》の信者の大君はたずねました。「それはまたどういうわけかな? なぜまた身分もあかしていただけぬのじゃ?」すると、アブ・アル・ハサンは答えました。「実は、旦那さま、てまえの身の上話ときたら寄妙きてれつ、しかも、これにはいわくがありますので」
 アル・ラシッドは問いかえしました。「そのいわくというのは?」「そのいわくには尻尾までありましてね」
 教主が相手の返事を聞いて笑うと、アブ・アル・ハサンは語をついで言いました。「ではひとつ、この文句のいわれについて、『ならず者と料理人』の話をひいて説明することにいたしましょう。どうかお聞きください」

……「眠っている者と目覚めている者」冒頭より

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