「アラビアンナイトの殺人」(上・下)

ディクスン・カー/宇野利泰訳

(上)ドットブック 375KB/テキストファイル 149KB

(下)ドットブック 386KB/テキストファイル 161KB

各巻400円

ある夏の夜、ロンドンのウェイド博物館を巡回中の警官が、怪人物を見かけたが、その人物は忽然と消えてしまった。しかも博物館の中には殺人事件が発生していた。それはとんでもない大事件の発端であったが、未解決のままだった。奇書アラビアンナイトの構成にならって、この事件を体験したロンドン警視庁のお歴々三人は、三者三様の観察力と捜査法を駆使して事件を物語る。そして、その話の聞き手はギデオン・フェル博士である。ユーモアと怪奇を一体にしたカーの独特な持ち味が、アラベスク模様のようにけんらんと展開する代表的巨編。フェル博士がみごとな安楽椅子探偵ぶりを発揮する異色作。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「 曲がった蝶番」など。

立ち読みフロア
 アデルフィ・テラス一番地にある大きな図書館の一室で、四人の男が丸テーブルをかこんでいた。ほんの二、三年のあいだに、これとおなじ会合が、何回となくここに開かれた。つり電灯に照らしだされた丸テーブルの上に、なんとも奇妙な証拠品を数多くならべたてて、フェル博士の点検を受けるのだった。たとえば、ゼンマイ仕掛けで動く踊り子人形が載っているときもあった。小さなブリキの人形が、ネジを巻くとぐるぐるまわるやつだが、その回転運動がウェザビー・グランジ事件を解決する手がかりとなった。リージェント・ストリートのポールトンが絞首台に送られたのも、そこにおかれた六個の青い貨幣からであった。しかし、その夜ほど不調和な品物がならんだことも珍しい。《アラビアンナイトの殺人》という名で知られた事件の証拠品で、半ダースほどの数だったが、料理の本があるかと思うと、付けひげが二そろいもならべてあった。
 テーブルの上の電灯は、かなり明るい光を放っていたので、スポットライトの役目を果たしていた。そのほかには、光らしいものはなにもなくて、ただ暖炉の火だけが燃えていた。万一この会合が、明け方までつづくときのために、用意をととのえてあったのだ。
 いちばん大きな椅子に鷹揚(おうよう)におさまって、葉巻やウイスキーをいっぱい載せたサイド・テーブルをひきつけて、ギディオン・フェル博士は顔を輝かしていた。博士は南フランスで四ヵ月の休暇を楽しんできたので、あふれるばかりの健康を誇っていたのだ。ついでながらいっておくが、博士はジロー毒殺事件を解決するために、カンヌまで出張してきたのである。イギリス娘がふたりも巻きこまれた、なかなかの難事件だった。そのあと博士は、コート・ダジュールで遊んで過ごした。ひとつには痼疾(こしつ)の喘息(ぜんそく)を癒(いや)すつもりもあったが、そのもっぱらの意向は、健康な怠惰を享楽するところにあった。
 さて、そうした理由のせいか、つり電灯の光を受けたその夜の博士は、いつもよりずっと血色がよかった。小さな目が、幅広の黒いひもをつけた眼鏡の奥できらめいていた。笑うたびに、くくれたあごがぶるんぶるんと震える。突きだしたチョッキのふくらみまでがゆれ動く。その偉大な体躯(たいく)は、《現在の》クリスマスの幽霊〔ディケンズのクリスマス・キャロル〕を思わせて、部屋いっぱいを圧していた。片手を籐(とう)のステッキの握りに載せている。もう一方の手は、太巻きの葉巻をつかんで、テーブルの上の証拠品をさし示している。
 そして、愉快そうにのどを鳴らして、
「こいつはおもしろそうな事件だな。料理の本と付けひげが二そろい、一つ事件に結びつくなんて、めったにお目にかかれるもんじゃない。そのいきさつを聞かせてもらえるんなら、一晩かかったって文句はいわんよ。見たところ、一組のひげは白いし、一組は黒いじゃないか。
 だけど、ハドリー君。ほかの品には面くらうね。得体(えたい)の知れないものばかりだな。そり身の短剣はまあいいさ。凶器の役に立つだろうが、ここにある何枚かの写真はなんだね? こいつは人の足跡らしいな。こちらのほうは――そうだね、近東地方の屋台店かバザーのようじゃないか。こいつも変な写真だ。壁が映っておるな。黒いしみがついておる」
「そのとおりなんです」とハドリー警視が真剣な顔つきでいった。「だれかが壁に、石炭を投げつけたんです」
 フェル博士は、葉巻を口へ持っていくところだったが、途中でそれを止めてしまった。首を一方にかしげたので、白毛まじりの髪の束が、大きく波を打って耳をかくした。
「壁へ石炭を投げつけた?」と博士も、おなじ言葉をくりかえして、「なんのために、そんなまねをしたんだね?」
 カラザーズ警部が、憂欝(ゆううつ)そうな表情で口をはさんだ。
「まったく、おっしゃるとおりです、博士。警視のお考えが正しいとしますと、これはよほど重大な意味を持っていると思われます。そうしてこの《しみ》と関連して、おそらく黒い付けひげが、あなたの注意をひくことと思いますが、これまた確かに――いや、このほうがもっと重要なことかもしれませんが。ごらんのとおり、アラビア・ゴムがついておりまして……」
「うるさいな、静かにせんか」
 ハーバート・アームストロング卿がしかりつけた。もとは実業家として鳴らした彼は、現在ロンドン警視庁の副総監の地位にあって、その傑出(けっしゅつ)した才腕(さいわん)をふるっているのであった。
「みんなしてしゃべったんでは、話がもつれるばかりだ。ふたりとも黙っていてくれ。説明はわしがする。ところで、フェル君。じつはわれわれ、この事件には手を焼いたんだ。最後の頼みとして、きみの力を借りるより方法がないのさ。あまり気違いじみた事件なんで、きみ以外には解決できそうもないんだよ」
「閣下にあってはかなわんですな」とフェル博士はいった。「それで?」
 そして博士は、テーブルをかこむ三人の顔を見まわした。三人はそれぞれ、口のきき方からものの考え方まで、きわだった対照を示していた。これがおなじイギリス人だと思うとおかしな気がするが、各地方の代表が集まったようなものだからむりもなかった。
……(巻頭より)

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