「我が名はアラム」

ウィリアム・サローヤン/三浦朱門訳

ドットブック版 324KB/テキストファイル 80KB

500円

新天地を求めてアルメニアからアメリカに移住してきたガローラニヤン家のアラム少年。いたずら好きの彼が悪友たちと起こす騒動の数々。貧しいけれども純粋で無邪気だった幼き日々を、愛と笑いとペーソスで彩った14編からなる名作短編集。サローヤンをみずからの文学の出発点として共感した三浦氏による翻訳でおくる。

ウィリアム・サローヤン(1908〜81)アルメニア系の移民としてカリフォルニアに生まれる。幼年時代は孤児院で過ごした。高校卒業後、さまざまな職につきながら小説を書き、「ブランコに乗った勇敢な若者」で作家デビュー。移民の生活をユーモアをまじえて表現した。代表作「我が名はアラム」、長編「人間喜劇」、戯曲「汝が人生の時」など。

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 ずっと以前、僕がまだ九つで、この世が素晴らしく、人生がまだ美しく不思議な夢であった頃、僕以外の者が皆、少しキ印(じるし)だと思っていた従兄(いとこ)のムーラッドが、朝四時に家に来て僕の部屋の窓をたたいた。
「アラム」
 僕は飛びおきて、窓の外を見た。
 僕は自分の目が信じられなかった。
 まだ朝ではなかったが、丁度(ちょうど)夏で日の出が近く、それが夢でないことがわかるくらいに明るかった。
 従兄のムーラッドは美しい白馬にまたがっていた。
 僕は首を窓からつきだして目をこすった。
「うん」
 と彼はアルメニア語で言った。
「馬だよ。夢じゃないんだ。乗りたいんなら急ぐんだ」
 従兄のムーラッドは、でたらめにこの世に産(うま)れてきた人間共よりも、人生を楽しんでいることは知っていたが、これは信じられないことだった。
 第一、僕の最初の記憶は馬のそれであり、最初の憧れは馬にのることだった。
 その夢はすばらしいものだった。
 しかし第二に、僕の家は貧しかった。
 それで僕は自分の目を信じられなかったのだ。
 僕たちは貧しく金がなかった。一族全部が貧しさに苦しんでいた。ガローラニヤン一族のどの家ででも物凄い、こっけいな窮乏の中に生活していた。誰も、一族の長老達でさえ、どうやって金を手に入れて、われわれの腹を満たしているのか知らなかった。しかし大切なことは、一族が正直で有名だったことだ。僕たちは十一世紀以上もの間正直で有名だった。なつかしい故国で僕たちが一番金持だった時でもそうだった。一族は一に誇り、二に正直、善悪を考えるのはその次だった。誰も盗むことはもちろん、他人を利用するなどということは決してしなかった。
 その結果として、僕は堂々たる馬を見、そのよい匂いをかぎ、胸を躍らせるその鼻息を聞いたのだが、僕は夢だろうと現実だろうと馬がムーラッドや僕や、一族の誰かと関係があるなんて信じられなかった。何故(なぜ)なら、ムーラッドが馬を買えるわけがないと知っていたし、買ったのでなければ盗んだことになるが、彼が盗んだとは考えたくなかった。
 ガローラニヤンの一族は泥棒なんかできっこないのだ。
 僕はまずムーラッドを、次に馬をまじまじと見た。この一人と一匹にはそれぞれ、厳粛さとおかしさとがあって、それが僕を喜ばせもし、恐れさせもした。
「ムーラッド、その馬をどこで盗んだんだ」
「乗りたけりゃ、窓から飛びおりろ」
 じゃ、本当なんだ。彼は馬を盗んだのだ。もう疑問の余地がなかった。彼は僕をさそいに来て、乗るか乗らないかを僕に選ばせようというのだ。
 つまり僕にしてみれば、乗るために馬を盗むことは、何か他のもの、金銭のようなものを盗むのとは別なように思えた。ひょっとすると、盗みにならないかもしれなかった。ムーラッドや僕みたいに馬に夢中になっていたら、それは泥棒ではない。馬を僕たちが売ろうとすれば泥棒かもしれないが、そんなことは決してしやしない。
「着物を着るからね」
「うん、早くしろよ」
 僕は急いで服を着た。
 僕は窓から庭に飛びおり、ムーラッドの後ろにまたがった。
 その年、僕たちは町外(はず)れのウォルナット街に住んでいた。家の裏はもう郊外で、ブドウ畑、果樹園、灌漑溝(かんがいこう)、田舎(いなか)道があった。三分もたたないうちに、僕たちはオリーブ街にいた。そこで馬は駈足を始めた。空気は新鮮で気持がよかった。乗り心地は申し分ない。一族で一番気違いと思われていたムーラッドは歌い始めた。つまり怒鳴(どな)り始めたのだ。
 どの一族にもどこかに気違いの素質がある。ムーラッドは一族の気違いの血を引いたと考えられていた。彼の前の世代ではコースローブ伯父(おじ)がいて、彼は大男で、がっちりした頭、黒髪に、サノーキン谷一の鬚(ひげ)を持っていた。彼はカンシャク持ちで、怒りやすく、気短かで、「大したことはない、ほっとけ」と、人の話を止めさせようと怒鳴るのだった。
 他人が何を言おうとしても、彼はそれだけしか言わない。ある時、彼が鬚を刈りこんでもらっている床屋まで、息子のアラクが八区画も走って、家が火事だと知らせに行った。コースローブという男はこの時、椅子に坐り直して怒鳴った。「大したことはない。ほっとけ」。床屋が、「この子はお宅が火事だと言ってるんですぜ」と言うと、コースローブは、「うるさい、大したことはないと言ったろ」と怒鳴った。
 ムーラッドはこの男の血を引いたと思われていた。もっとも、ムーラッドは実際的なだけで取立てていうほどのこともないゾラブの息子だったが、一族はそう信じていた。父親は息子の肉体の父になれるが、それは心の父親にもなるということではない。僕の一族の様々な気質の遺伝の仕方は気まぐれで、取りとめがなかった。
 僕たちは馬に乗り、ムーラッドは歌った。少なくとも近所の人の考えでは、僕たちの祖国である昔の国、アルメニア人なのであった。僕たちは馬の好きなように走らせた。
 遂(つい)にムーラッドが言った。
「下りろ。僕が一人で乗る」
「僕にも一人で乗せてくれる?」
「馬にききな。とにかく下りろ」
「馬は乗せてくれるよ」
「さあね。僕が馬のコツを知ってるのを忘れるなよ」
「でも、君の知っているコツなら僕だって知ってら」
「おまえの無事のためにも、そうあって欲しいもんだ。さあ下りろ」
「うん。だけど、僕に一人で乗せるのを忘れちゃ厭(いや)だよ」
 僕が下りると、ムーラッドは踵(かかと)で馬を蹴って、ヴァシーレ(走れ)と叫んだ。馬は後足で立っていななき、猛烈な速度で走り始めた。そんな美事な状景を僕は見たことがなかった。ムーラッドは枯草の野を灌漑溝の方へ馬を走らせ、溝を飛び越えて、五分後に汗まみれになって戻ってきた。彼は言った。
「日が出るぞ」
「今度は僕の番だ」
 ムーラッドは馬を下りた。
「乗れ」
 僕は馬の背に跳びのった。一瞬僕は物凄くこわかった。馬は動かない。
「馬を蹴るんだ。何してるんだお前は? 世間の人が起きださないうちに馬を返さなくちゃならないんだぞ」
 僕は馬を蹴った。再び馬は後足で立っていなないた。そして走り出した。僕はどうしていいかわからなかった。灌漑溝に向かう枯野を走らずに、馬は道をディクラン・ハラビヤンのブドウ畑の方へ走り、ブドウの樹を跳び越え始めた。馬が七本もブドウの木を跳び越えないうちに、僕は落馬した。馬はなおも走り続けた。
 ムーラッドは道路を走ってきた。彼は怒鳴った。
「お前のことなんか心配しちゃいないんだぞ。あの馬をつかまえなくちゃならない。お前はこっちへ行け、僕はあっちへ行く。馬と出会ったら、やさしくするんだ。僕も近くにいるからな」
 僕は道を進み、ムーラッドは野原を横切って、灌漑溝の方へ行った。
 馬を見つけて、連れ戻すのに彼は三十分かかった。彼が言った。
「よし、乗れ。皆もう起きちゃってるぞ」
「どうするの」
「うん。つれ戻すか、明日の朝までかくしておくか、だ」
 彼の言葉は迷っているようには聞えなかった。馬をかくすつもりで、連れもどしはしないのは分っていた。少なくとも、ここ当分の間は。
「どこへかくそう?」
「いい場所があるんだ」
「何時(いつ)頃から、馬を盗み出したんだ」
 しばらく前から彼が毎朝馬に乗っており、僕が乗りたがっているのを知ってたから、今朝僕を誘いに来たのだということが、不意にわかりだしたのだ。
「誰が盗んだなんて言った?」
「つまりさ、いつ頃から、毎朝の馬乗りを始めてたの」
「今朝が初めてだ」
「ほんとう?」
「もちろん嘘さ。しかしもし見つかったら、おまえはそう言うんだぞ。僕は二人が嘘つきになるのは御免(ごめん)だからな。おまえが知ってるのは、二人が今朝馬乗りを始めたということだ」
「わかったよ」
 彼は荒れたブドウ園の納屋(なや)に馬を静かに引いて行った。そこは以前フェトバジャンという農夫の自慢の種だった農園だ。カラスムギやウマゴヤシが少し納屋にあった。
 僕たちは歩いて家路についた。彼は、
「馬に言いつけを守らせるのは楽なことじゃない。最初馬は暴走したがる。しかしさっき言ったように、僕は馬のコツを知っている。僕が馬にさせようと思うことを、馬の方でもしたくなるように仕向けることが、僕にはできるんだ。馬は僕の気持がわかるんだ」
「どうしてそうなんだろう」
「僕には馬がわかってるから」
「でも、どうわかってるの?」
「単純で正直に馬をわかってる」
「ふーん。僕もそんな風に馬をわかりたいな」
「おまえはまだ子供だ。十三になったら、わかるよ」
 僕は家に帰って、腹一杯朝飯(あさめし)をたべた。
 午後、コースローブ伯父が僕の家にコーヒーと煙草をのみにやってきた。彼は客間にすわって、コーヒーをすすり、煙草を吸いながら、故国をしのんでいた。そこへもう一人の客、ジョン・バイロという名の農夫がやってきた。彼はアッシリア人で、淋しさのあまりアルメニア語をおぼえた。母が淋しげな客にコーヒーと煙草を出すと、彼は煙草を巻いて、コーヒーをすすり、煙草を吸った。やがて悲しげに溜息(ためいき)をついて、彼は言った。
「先月盗まれたわしの白い馬がまだ帰らない。わしにはわけがわからん」
 コースローブ伯父は非常に不機嫌になって叫んだ。
「大したことはない。馬がなくなったのが何だ。おれ達は皆、故国を失ったじゃないか。馬のことで泣く奴があるか」
「あんた方(がた)、町の衆だから、そういうけれど、だけど、わしの馬車はどうなるね。馬のない馬車が何の役に立つね」
「ほっとけ」
 とコースローブ伯父がわめいた。
「わしはここまで十マイルの道を歩いた」
「おまえには足があるじゃないか」
「左足が痛いんだ」
「ほっとけ」
 伯父がわめいた。
「あの馬は六十ドルしたんだ」
「金なんかクソくらえ」
 伯父は立ち上って、家の外へ出て、ドアをピシャリとしめた。
 母が言訳(いいわけ)した。
「あの人の心はやさしいんだけれど、あんな大きな図体(ずうたい)で、ホームシックにかかっているもので、ああなんですよ」
 農夫は帰って行った。僕はムーラッドの家へ走って行った。
 彼は桃の木の下にすわって、飛べなくなった駒鳥(こまどり)の傷ついた羽をなおそうとしていた。彼は鳥に話しかけていたが、
「どうしたんだ?」
「百姓のジョン・バイロが、家へ来たよ。馬を探してるんだ。君が一か月もあれを持ってるだろ。僕が乗るのがうまくなるまで返さない約束をしてほしいんだ」
「おまえが乗れるようになるのに一年もかかるぞ」
「一年間馬をとっておいたらいいじゃないか」
 ムーラッドは跳び上った。
「何だって。おまえはガローラニヤン家の者に盗めというのか。馬は本当の持ち主に返さなきゃならない」
「いつ?」
「少なくとも六か月後には」
 彼は鳥を空中に投げた。鳥はもがいて、二度も落ちそうになったが、とうとう高く真直(まっす)ぐに飛び去った。
 二週間の間毎朝、僕と従兄のムーラッドは馬をかくしておいた荒れたブドウ園の納屋から馬をひきだして乗った。そしていつも僕が乗る番になると、ブドウの樹や灌木(かんぼく)を跳びこし、僕を振りおとして、走って行った。それでも僕はやがてムーラッドのように馬に乗るのを覚えようと思っていた。
 ある朝、僕たちはフェトバジャンの荒れたブドウ園へ行く途中、町へ行こうとするジョン・バイロにバッタリ出会った。
「おれに話をさせろよな。百姓を扱うコツを知ってるんだ」
 とムーラッドが言った。
「ジョン・バイロさんお早う」
 と彼は農夫に言った。農夫は馬を熱心に眺めた。
「お早う。仲間の息子さん。おまえさん達の馬は何という名だね」
「わが心」
 とムーラッドがアルメニア語で言った。
「美事な馬にうってつけのいい名だ。これは何週間も前にわしがとられた馬に違いないと思うがね。口を見ていいかね」
「いいとも」
 農夫は馬の口をのぞきこんだ。
「歯はぴったりだ。おまえさん達の親御(おやご)を知らなけりゃ、これはわしの馬だと言うところだが。おまえさんの一族の正直な評判はわしはよく知ってる。でもこれはわしの馬にそっくりだ。疑い深い男なら、自分の心でなく目を信ずる所だろうな」
「さよなら。ジョン・バイロさん」
 翌朝早く、僕たちは馬をジョン・バイロのブドウ園につれていって、納屋に入れた。犬はおとなしく、僕たちについてきた。僕が、
「犬だよ。僕は犬に吠えられると思った」
 といったが、ムーラッドは馬の首をだいて、自分の鼻を馬の鼻におしつけて、馬を軽くたたいた。僕たちはそこを立ち去った。
 その日の午後、ジョン・バイロが馬車に乗って、僕たちの家へ来て、盗まれて戻ってきた馬を母に見せた。
「わしには見当がつかぬ。馬は前より丈夫になり、おまけに気立てもよくなった。有難いことだ」
 客間にいたコースローブ伯父は機嫌を悪くして怒鳴った。
「静かに、あんた、静かに。あんたの馬が返った。そんなことはほっとけ」

……第一編 「
美しい白馬の夏」

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