「矢の家」

A・E・W・メイスン/守屋陽一訳

ドットブック版 247KB/テキストファイル 229KB

500円

ハーロウ夫人の莫大な遺産を相続した養女は義弟に脅迫される。それが失敗に終わると義弟は夫人殺害のかどで養女を告発する……養女は弁護士事務所に救いをもとめ、アノー探偵の登場となる。はるかにモンブランをのぞむ風光明媚なブルゴーニュのディジョンを舞台に、犯人と探偵とがくりひろげる壮絶な心理戦。第一級の古典的名作。

A・E・W・メイスン(1865〜1948) ロンドン生まれ、オックスフォード大卒。演劇俳優を志すが、むしろ合間に手を染めた小説で作家としてデビュー。代表作 The Four Feathers は20世紀で最も数多く映画化された小説となった。のちにはフランス人探偵アノーの活躍するミステリー5作で有名になった。「矢の家」はその代表作である。

立ち読みフロア

 ラッセル・スクェアの東側にあるフロビッシャー・ハズリット法律事務所を訪れる依頼人の中には、フランスで事業を起こした人が多かった。また事務所の方でも、そういった仕事をひきうけることに、かぎりない誇りを感じていたのである。
「この事務所のことは歴史にもちゃんと書いてある」ジェラミ・ハズリット氏は口ぐせのようにいっていた。「一八〇六年、当時この事務所をやっていた精力的なジェイムズ・フロビッシャー氏が、ナポレオン一世の勅令によってフランスに抑留されていた沢山のイギリス人の脱出の御膳立てをした時以来のことなんだ。そのときは政府から感謝状をもらったが、それ以来幸いその関係がずっとつづいているわけだ。私もフランス関係の仕事は自分でやるようにしている」
 こんなわけで、ハズリット氏のところにくる手紙の中には、ダークブルーをしたフランスの切手をはったものが、かなりの数を占めていた。ところが四月になったばかりのその日の朝、フランスからの手紙はたった一通しかきていなかった。蜘蛛の足のように細長い、乱雑な筆跡で、全く心当りのないものだったが、ディジョンの消印がついていたので、ハズリット氏はいそいで封を切った。ディジョンにはハーロウ夫人という未亡人の依頼人がいて、からだの具合がよくないということをきいていたからである。それは彼女の住んでいるグルネル荘からきたものにちがいなかったが、彼女の書いたものではなかった。彼は署名も調べてみた。
「ワベルスキーだって?」彼はむずかしい顔をしながらつぶやいた。「ボリス・ワベルスキー?」それからやっと合点がいったように「ああ、そうか」とつけ加えた。
 彼は椅子の上に腰をおろすと、その手紙に眼を通した。はじめの方は単なる形式的な挨拶にすぎなかったが、二頁目の中程までくると、いわんとしていることはガラスのようにはっきりしてきた。せんじつめれば五百ポンドほしいということなのである。ハズリット老人は微笑をうかべて読んでいったが、読みながら一人でその手紙の差出人と話をしていた。
「私にはその金がどうしても必要なのです。そして――」
「たしかにその通りでしょうな」ハズリット氏は答えた。
「私の最愛の姉であるジャンヌ=マリーは――」
「義理の姉ですな」ハズリット氏は訂正した。
「――いろいろ手をつくしてみたのですが、もういくらも生きられそうにないのです。御存知と思いますが、彼女の財産の大部分は私が相続することになっています。つまりすでに私のものといってもいいのではないでしょうか? そんなふうにいっても別にいいすぎではないと思います。われわれは事実というものをはっきり見なければいけないのです。そんなわけですから、私の相続する財産のごく一部分を書留で至急送って頂きたいと思います。敬白」
 はじめ微笑していたハズリット氏も今ではにやにやしていた。ディジョンにいるフランス人の公証人によって作られたジャンヌ=マリー・ハーロウの正式の遺言書のうつしは、ブリキの箱の一つに入っている。それによると、亡夫の姪で養女になっているベティ・ハーロウが、彼女の全財産を無条件で相続することになっているのだ。ジェラミ・ハズリットはもう少しでその手紙を破ってしまうところだった。指がすでにそれをひねり――手紙のはしを破りかけた時、不意に彼の気持は変った。
「いや、破るのはよそう」彼は心の中で考えた。「まだどういう男なのかわかっていないんだからな」そこで彼は私用金庫の棚の中にその手紙をしまいこんだ。
 それから三週間たって、「タイムズ」の死亡記事欄にハーロウ夫人の死亡記事が出、幅の広い黒枠のついている大型のフランス式死亡通知がベティ・ハーロウからとどいた時、彼は手紙を破らずにおいてよかったと思った。葬式にきてくれというその通知は、単に形式的なものにすぎなかった。すぐその場で出かけたとしても、ほとんど間にあいそうになかったからである。そこでベティという少女には、衷心《ちゅうしん》からの短い悔みの手紙を書き、フランス人の公証人には、もしベティが希望するなら当事務所としてはいかなる助力も惜しまないという手紙を書くことで満足しなければならなかった。こうして彼はその結果を待った。
「ボリスという男からまた手紙がくるにちがいない」彼はそうつぶやいたが、予想通り一週間もしないうちに、また手紙が送られてきた。筆跡はますます蜘蛛の足のように細長くなり、乱雑さはさらにその度を加えていた。病的な興奮と怒りがワベルスキー式英語を救いがたいめちゃめちゃなものにしていたのである。また彼の要求している金額も、前の二倍にはねあがっていた。
「全く信じられないことです。あれほど面倒をみてきた弟に、何一つ遺《のこ》してくれていないのです。なにか面白くないことがあるにちがいありません。今度は書留で一千ポンド送ってもらいたいのです。『かわいそうに、あなたはいつも運がわるかったのね』彼女は大粒の涙を眼にためていっていました。『だけど、あなたに私の遺言書で埋めあわせをしてあげるわ』それなのに、私の分は何一つないのです! もちろん姪には交渉してみます。――ああ、本当に血も涙もない女だ! あの女は私のことなんかまるっきり無視しているんです! 一体何たる態度でしょう。一千ポンドの金は是非たのみます。もし送ってもらえないと厄介なことがもちあがりますぞ!」今度は敬白とかそれに似た文字は見当らず、曲りくねった署名が紙面一ぱいに書きなぐってあるだけだった。
 ハズリット氏も今度は微笑をうかべず、軽く手をもんだだけだった。
「こうなると、われわれの方でも厄介なことをはじめなければならなくなるぞ」彼はあわただしくそうつぶやくと、最初の手紙と同じ場所にしまいこんだ。しかしハズリット氏はすぐ仕事にとりかかる気にはなれなかった。ディジョンの大きな邸の中に住んでいて、血のつながった親類一人いない少女! 彼は突然立ちあがると、廊下を横切って年下の共同経営者の部屋に出かけていった。
「ジム、今年の冬モンテカルロにいっていたね」
「ええ、一週間ばかりいっていました」
「うちの依頼人のハーロウ夫人をたずねるようにいっておいたはずだが」
 ジム・フロビッシャーはうなずいた。
「たしかに行きました。しかしハーロウ夫人は病気でした。姪御さんが一人いたのですが、外に出ていていませんでした」
「では、だれにもあわなかったのかい?」
「いや、そういうわけでもないんです」ジムは訂正した。「ハーロウ夫人は病気で失礼すると、玄関に出てきた妙な男がいました――たしかロシア人だったと思いますが」
「ボリス・ワベルスキーだ」
「ええ、そんな名前の男でした」
 ハズリット氏は椅子の上に腰をおろした。
「ジム、一体どんな男だった?」
 しばらくの間、ジム・フロビッシャーはぼんやりと空をみつめていた。彼はまだ二十六歳の青年で、一年前ハズリット氏の共同経営者になったばかりだった。なすべきことはこの上もなく迅速だったが、人の性格を判断するのは生れつき慎重だった。その上ハズリット老人に畏敬の念を抱いていたので、仕事のことになると、いっそうその慎重の度合が増すのである。大分たってから、彼はやっと返事をした。
「よろよろした背の高い男で、眼つきも荒々しく、せまい額の上には白いもののまじった針金のような髪の毛がもしゃもしゃとつっ立っていました。一口でいえば、ちゃんとひもの通っていないあやつり人形といった感じでした。ちょっととっぴで感情的なところがあるんじゃないでしょうか。煙草のしみのついた恐ろしく長い指で、しょっちゅう口ひげをひねくり回していました。かっとなると何をしでかすかわからない男です」
 ハズリット氏は微笑した。
「私の想像していた通りだ」
「何か厄介な目にあわされそうなんですか?」
「いや、今のところはまだだ。だが、ハーロウ夫人が死んだとなると、そうなる可能性が強くなってくる。ワベルスキーというのは賭ごとは好きなのか?」
「大分好きらしいですね。恐らくハーロウ夫人を食いものにしていたんじゃないでしょうか」
「多分、そんなところだろうな」 

……「一 奇妙な手紙」冒頭


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