「芸術に関する101章」

アラン/ 斎藤正二訳

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600円

散文の職人アランによる、芸術に関する「語録」。「美というものは、つねに偶然に見つかるもので、しかも、つくられたあとになって、それと認められるものだ」(材料と形式)、「芸術とは、一つの為しかたであって、考え方ではない」(アルチザンとアルチスト)、など、芸術の基本を「手仕事、職人の技術」に求める一貫した姿勢がうかがわれる。歌、楽器、音楽、建築、詩、演劇、絵画、彫刻、デッサン、映画、レコードなど、取り上げられる話題はきわめて多方面にわたる。

アラン(1868〜1951) フランスの哲学者・批評家。リセ・アンリ4世校などで教授を務めた。徹底した合理主義・自由主義に基づいて、芸術・文学・政治・教育などの多方面にわたる批評活動をおこなったことで知られる。「幸福について」「思想」など、多方面にわたる著作で知られる。

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一 うたう叫び声

 朝になると、往来のほうで、物売りのうたう叫び声を、あなたは聞く。その叫び声を耳にすると、いま何時ごろになったかということが、あなたにはわかる。「小鳥の餌(えさ)に、ハコベはいかが」という声。「ほうら、いきのいいニシンだよ」という声。「フライ用のタラがあるよ、フライ用の」という声。「ええ、生地(きじ)はいらんかね。いい生地があるよ。洗いの利(き)く生地が」という声。あなたの耳にふれてくる、こうした音をよく吟味してみるならば、あなたがよく聞いているのは、言葉ではなくて、たんに一種の歌にすぎず、歌を聴いて、あなたが、ああ、あれか、と識別しているということが、わかるであろう。
 軍隊の号令についても、同じことがいえる。そこでは、二つのことがたいせつである。声のあがりさがり。そして、一種のリズム。将校が「構えて。……射(う)て!」と叫ぶときのように、「間(ま)」というものがよい号令の本質となっている場合もある。音楽の起源は、たしかに、こういうところにあるのだ。ふいをつくでもなしに、かといって、曖昧(あいまい)になることもなしに、一団の人間の行動を律するすべを心得た者は、かならず、よき歌い手であり、したがって、拍子正しくうたうのである。
 遠方へ伝える言葉は、おのずから、音楽的になる。遠方へ伝える言葉は日常の言葉のアクセントから、旋律を借用する。しかし、この旋律は、よりよく理解されるように、より遠くまでとどくように、純粋化され、単純化される。もっとも、人間がこんなぐあいに旋律を発明した、などと想定するのは、いささか、インスピレーションのはたらきを重んじすぎるきらいがないでもないが。
 狩猟をするとき、狩人(かりうど)たちは、遠くのほうから、たがいに合図する必要がある。おそらく、彼らは、さいしょ、口のまわりに両手をまるく当てて、大声で叫んでいたのだろう。やがて、彼らは、樹皮(じゅひ)と金属とを用いて、メガホンをつくった。このメガホンの中では、ふつうの声のうち鋭い部分と深い部分とだけを使い、これに一つのリズムをつけて、どなったのだ。そのときに、自然の法則のほうで、この叫び声を調整してくれ、いうなれば濾過(ろか)してくれたのである。管(くだ)というものは、すべての音をひとしく強めるわけではなく、いわゆる和音だけを強めるからである。そのさい、この和音は、ほかのどの音よりも耳によく聞こえるものだ。こうした音をじょうずに出す者が、この道の名人上手(めいじんじょうず)とよばれたのである。このようにして、メガホンは、だんだんに姿を変えて、トランペットとなり、角笛(つのぶえ)となり、ラッパとなった。それと同時に、叫ぶ術(わざ)は、うたう術(わざ)となった。すべて、われわれの音楽は、ラッパもしくは角笛の出す音符のうえに、うちたてられているのである。事物のみなもとをたずねようと思うならば、われわれを取りまいているもののなかにこそ、自然そのもののなかにこそ求めるべきであって、古い文献をたずねてもだめなのだ。
 生物学に固執(こしつ)するならば、インスピレーションというものは、むしろ、われわれ自身の行動が一つの共鳴を示すところに存する、というべきである。つまり、歌い手は、自分自身の力を発見し、自分の偉大さの歩みを発見するわけである。さて、ごくあたりまえの話し方であっても、相手がこちらのいう意味を理解するというのではなしに、ただ耳で聞いているというような、そんな話し方まで到達するならば、それはもう、一種の旋律になりえているのだ。上昇と下降とがあり、飛躍と停止とがある、あの旋律に。

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