「画商の想い出」

アンブロワーズ・ヴォラール/小山敬三訳

ドットブック版 2.52MB/テキストファイル 290KB

1200円

アンブロワーズ・ヴォラール(1866〜1939)は、印象派から立体派への近代美術の流れのなかで最も重要な役割をはたした画商である。フランス領レユニオン島生まれ。最初はモンペリエで法律を学ぶが、パリに出てラフィット街に画廊をひらいた。ボナール、セザンヌ、ドガ、ピカソ、ゴーガン、ゴッホ、ルノワール、ジョルジュ・ルオー、マイヨールらを売れない時期から支援して大成功した。美術コレクター、美術書出版者としてもよく知られる。本書は彼の回想録で、画家たちとの交流にともなう豊富なエピソードがおもしろい。表紙画像はボナールによる「猫を膝におくヴォラール」、他にセザンヌとピカソによるヴォラールの肖像画もおさめてある。
立ち読みフロア
 どうして私がセザンヌの絵を知ったか? 私がこの画家の一枚の絵、河畔の絵を最初に見たのはクローゼル通りの小さい絵具屋タンギー爺さんの陳列窓の中であった。私は腹に一撃をうけたように感じた。
 私と同時に、もう二人の人がこの絵の前に立ち止った。ブルジョワの夫婦である。
「こんなに自然を歪めなくてもよさそうなものだ。立ってない樹木! ひっくりかえっている家、それにこの水、こりゃ水かね? それとも鉛かね? この空ときちゃ……もし自然がこんなふうであったら、田舎へ行ってみようなんて気は絶対起こりっこないよ」と山高帽の男が言っていた。
 このとき、道具袋を背負い革でかついだ労働者がやって来た。
「あー」と彼は叫んだ。「日曜に釣でもしたいってのは、そら、こんなところだ」
 すっかり軽蔑を含んでブルジョワは行ってしまった。
 さて私は、学生の淋しい懐では、とてもこの絵を買うわけにはいかないのが悲しかった。私は考えた。
「画商とは何といい商売だろう。こんな素晴らしい環境に包まれて暮らすとは!」
 こんなわけで、私がこの商売に入るや否や、最初の計画はセザンヌの絵の展覧会を開くことだった。しかし、このためには、もっとこの画家との交渉を繁くする必要があった。これはとりわけ骨の折れる仕事だった。というのは、セザンヌは決して自分の宿所を知らせなかったからである。ある人の言うには、フォンテーヌブローの辺りにきっといるだろうと。そこで私はその近所を、どのくらい無駄足つかって探し回ったことだろう! 特に芸術家達が行くという旅宿などを……でついに、私の捜索を町の絵具屋にまで及ぼそうと考えるに至った。私は三カ所尋ねたが、答えはいつも同じであった。
「セザンヌさんですか? 知りませんね」
 四人目の、これが最後と尋ねた人は、
「あなたがお探しのセザンヌさん? 待って下さいよ……お教えしましょう」
 と言ってその人はセザンヌの家を教えてくれた。私は飛んで行った。何ということだ! その家で私は、セザンヌが最近、どこへとも言わずに引越してしまったことを知らされた。
 私のがっかりした様子を見て一人の借家人が話してくれた。
「何かお役に立つかも知れませんよ。私は、セザンヌさんが引越屋に、町の名を言っているのを耳にはさみましたがね、何でも動物の名と聖者の名とを一緒にしたパリの町でしたよ」
 この漠然とした、しかし、重要な知識を授けられて私はパリに戻った。何時間かののち、小さなカフェで私は市の町名録を調べた。動物の名と聖者の名を持った町名は見つからなかった。しかし、突然目に入った「ライオン街」、動物の名である。同じ区に、その名の教会が近くにあるので、ジャルダン・サン・ポールと呼ばれる町のあることを知っていた。こんなことからライオン街は一名ライオン・サン・ポール街と呼ばれていることに気がついた。かたっぱしから一軒一軒当ってみることに心をきめて、まず二番地の家から始め、門番から次のような答えを得て嬉しくもあり驚きもした。〔パリの街は片側は奇数の番地がならび、向い側は偶数の番地になっている〕
「セザンヌさんのお宅ですか? 手前どもですよ。唯今お留守ですがね。お坊ちゃんはおいでになります」
 この青年は非常に愛想よく迎えてくれた。私が来訪の趣きを告げると、
「では、その展覧会に出品するように父を説きましょう」と言ってくれた。
 後刻私は、いろいろとりまぜて百五十点ばかりのこの画家の絵を受け取った。絵は巻いてあった。当時私の貧乏さ加減では一メートル十サンチームくらいの出来合いの細い棒になっている額縁におさめて、やっと展覧したものだ。

 以下に示すわずかな記事だけでも、この時代には、一般大衆が、エクスの画家(セザンヌ)の絵をなかなか解り得なかったことを判断できよう。
 まず一例を示せば、つまらない弥次馬のように悪口を言うだけでは気が済まず、買手があると思い込み、自分らの利益の邪魔をし、威厳を傷つけると考えた芸術家連の怒りを挙げることができる。また「これら不埒(ふらち)な油絵の悪夢的視覚の兇暴さは、今日法律で許された瞞着の範囲を越えている」と訴えた「芸術家新聞」の美術批評家の批判も想い出す。
 そこで、私は愛好家や批評家達の罪を軽くするためにこう言うべきである。すなわち普通一般の画家達はもとより、最も秀れた大家でさえも彼らと同じようにしか考えていなかったと……。私は画家彫刻家の蒐集品の中ヘピュヴィ・ド・シャヴァンヌ〔十九世紀フランスの特異な神秘画家〕から墨色の石版画を一枚手に入れたので、この人からまた何か今度は色彩入りの石版画を得たいという野心を抱いていた。するとシャヴァンヌは、
「そりゃ、こっちにも大いに興味の持てることだ……お店へ伺いましょう。そして何か題を選ぼう」と答えた。
 彼は数日後来るには来たが、店の陳列窓の前に足を止め、セザンヌの、『水浴する人々』を長い間眺めていたが、店には入りもしないで、肩をすぼめて行ってしまった。で、それきり彼を見かけなかった。
 とはいえ、私もたまには元気づけられるような場合に出会ったものだが、その一番代表的なものとして、生まれつきの盲人が絵を買った話をお聞かせしよう。彼の語るところによれば、自分は芸術家の子としてまた孫として、生まれながらに絵の鑑賞力を持っていると……。付添人がいて、彼に絵の説明をして聞かせた。彼は河畔を描いた横長な絵を選んだ。
「縦長な画面よりこの方が遙かに水は洋々と広がって見えるはずだからね」と彼は言った。

 しかし仮に批評家や愛好家、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌのような芸術家達までが、セザンヌの絵の中に「まやかしもの」しか看取し得なかったとしても、青年画家達は次第しだいにエクスの画家の影響を受けて行った。一九〇一年にモーリス・ドニは『サント・ヴィクトワール』の作者に対する尊敬のしるしとして、この上なく感動する画の一つを描きあげた。それは今日リュクサンブール美術館で見ることのできる『セザンヌ礼讃』である。この絵の中央には、ゴーガンの所有にかかるセザンヌの有名な絵の写しである果物器が描かれている。この構図の左手には、このグループ中での理論家セリュジエ〔ナビ派の画家。ゴーガンの弟子〕が仲間を前にして説明紹介の役をつとめている。そして仲間というのはドニ、ランソン、ヴュイヤール、ボナール、ルセル、それにオディロン・ルドンとメルリオとが加わっており、私自身もその中に描かれる光栄に浴した。
……「ラフィット街」より

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