「諜報員アシェンデン」

モーム/篠原慎訳

ドットブック版 281KB/テキストファイル 211KB

500円

モームの実体験にもとづくスパイ戦の実相。女スパイあり、革命の志士あり、革命の敗者あり、売国奴あり、れっきとした外交官のスパイあり、全16章はそれぞれが独立したエピソードからなり、多種多様な人たちが姿をあらわし、短編集のおもむきがある。哀歓の渦中にはモーム独特の皮肉な側面もしばしば顔をだす。

目次

第一章 英国情報部工作班長R
第二章 家宅捜索
第三章 ミス・キング
第四章 メキシコ革命の敗者
第五章 ある女スパイの物語
第六章 間違えられた犠牲者
第七章 パリヘの旅
第八章 革命の志士と女芸人
第九章 偽りのレポート
第十章 売国奴
第十一章 陰に隠れて
第十二章 英国大使の過去
第十三章 コインで賭けを
第十四章 ロシアヘの旅
第十五章 恋とロシア文学
第十六章 ロシア革命と洗濯物

サマセット・モーム(1874〜1965) 1874年パリ生まれ。父は英国大使館の顧問弁護士。フランス訛の英語や足が不自由だっために、級友にいじめられ、悲惨な学校生活を強いられたことが、彼のコンプレックスを強くしたといわれている。ロンドンで6年間医学を勉強をしていたが、23歳のとき医者としての体験を題材にした処女作「ランベスのライザ」の発表が成功し、以来小説、戯曲、エッセイなどの創作に専念。代表作に「月と6ペンス」「人間の絆」などがある。

立ち読みフロア
 九月の初めだった。第一次世界大戦の戦火が発したとき、作家アシェンデンは海外にいた。ようやくの思いで故国イギリスへ辿《たど》り着いた彼は、ある私的な集まりの席で中年の陸軍大佐にひきあわされた。名前はうっかり聞きもらしたが、その場は何とはなしに世間話をして別れた。後刻、会場を出ようとした彼のところへ、その大佐がつかつかと歩み寄って話しかけた。
「失礼だが一度私のところへ来て下さらんか。ちょっと話したいことがあってね」
「いいですよ、いつなりと」
「あしたの十一時ごろってのはどうだろう」
「結構です」
「所番地をお教えしておこう、名刺をお持ちかな?」
 名刺を渡すと、大佐は、所番地を鉛筆で走り書きして戻してよこした。次の日の朝、教えられた町を捜して行くと、そこはひと昔前に、高級住宅地として名を売った町だった。もっともいまは、虚名をほしがる成り上がり者が、そこに住んでいるということを自慢の種にするだけの地区になっていた。教えられた家は、表に「売り家」という札がかかっていた。よろい戸はすべて閉ざされ、人が住んでいるような気配はなかった。玄関のベルを押すと、さっとドアが開き、そこに下士官がひとり立っていた。この素速さには、いささかドギモを抜かれた。下士官はむっつり押し黙ったまま、奥の細長い部屋へ案内して行った。昔は食堂として使っていたらしく、豪華なインテリアだったが、それが、あちこちに無造作に置いてあるいとも素っ気ない事務机やイスと、奇妙な対照を示していた。何か執達吏に差し押えをくった部屋といった感じだ。
 大佐は、これはあとでわかったことだが、イギリス陸軍情報部の工作班長でRという暗号名を持っていた。彼が部屋に入るのを認めると椅子から立ち上がって、手を差しのべた。イギリス人としてはごくふつうの背丈で、やせた体躯《たいく》をしていた。浅黒い顔は深いシワに刻まれ、薄く白い髪に、歯ブラシのような口ヒゲといった風貌《ふうぼう》だ。しかしなんといっても最大の特徴は、青い両の目がくっつきそうに近寄っていることだ。いささかヤブニラミの気味さえあった。けわしく冷酷で、用心深そうな目つきだ。このため顔全体が、狡賢《ずるがしこ》い感じで、とても信用のおけそうな人物には見えなかった。それでも態度は快活で気持ちがよかった。
 しばらくアシェンデンに、ありきたりの質問を続けたあと、いきなりズバリと、言葉を投げてよこした。「君は秘密諜報部員としてうってつけの資格を持っている」事実彼はヨーロッパの数か国語に通じていたし、作家という職業が何よりの隠れミノになる。小説の資料集めという口実で、中立国へなら自由に出入りできた。そんなことを話し合っている間に、Rはこうも言った。
「小説のネタになるような事実を、いくらでも拾えますぞ」
「いや、そんなことはいいんですよ」
「つい先日もこういう事件があったよ。そっくりそのまま小説になるような話でね。フランスのある大臣が、カゼの療養のためにニースへ行ったと思いたまえ。その男はある重要な文書をアタッシュ・ケースに入れて持っていた。国家機密に属する重要書類だ。ニースへ着いて数日後、大臣は、町のレストランかナイトクラブで、ブロンド美人と出会って親しくなったんだネ。そして女をホテルへ連れ込んだんだ。まア、フランス人らしい手の速さだが、とにかく、その夜ベッドを共にして、あくる朝日を覚ますと、アタッシュ・ケースもろとも、女が消えていたってわけだ。寝る前に女と一緒に軽く酒をのんだらしいんだが、大臣が何かで背を向けたスキに、グラスに薬を入れられたというんだ」
 Rはここまで話すと、どうだといわんばかりに、目を光らせてアシェンデンを見すえた。
「ドラマチックだろう、君」
「先日の事件とかおっしゃいましたが、いつのことです」
「先週だよ」
「驚きましたねそれは」
 アシェンデンは声をあげた。
「そういう事件なら昔から芝居や小説であきるほど見聞きしてますよ。いまさらなぞっていく興味も必要もありませんね」
 Rはちょっと鼻白《はなじら》んだ。
「何なら関係者の名前や日時をお教えしてもいいよ。その文書を盗まれたために、連合国側はたいへんな目にあってるんだからね」
「諜報活動というものがその程度のことでしたら」
 アシェンデンは溜息《ためいき》まじりに言った。
「作家としちゃ何のインスピレーションも感じませんね。そういう話にはもうあきあきしてるんです」
 しかし結局、Rとの間で話が決まり、アシェンデンは、こまかい指示をメモして辞去することになった。翌日、ジュネーブへ出発という手筈まで決まっていた。帰ろうとする彼に大佐が言った言葉は、さりげなく発したものだけに、よけい心にひっかかった。
「この仕事につく前にぜひとも知っておいてもらいたいことがある。忘れないでくれたまえ。つまり、任務を達成してもほめられず、窮地に陥っても援助は得られないということだ。それでもいいね?」
「もちろんです」
「じゃせいぜい頑張ってくれたまえ」


……「第一章 英国情報部工作班長R」より

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