「守銭奴」

モリエール/井村順一訳

ドットブック版 107KB/テキストファイル 56KB

400円

徹底した守銭奴アルパゴンを主人公にした、大いに笑えるモリエール晩年の性格喜劇。今日では「タルチュフ」についで最も上演回数が多い。「泥棒、泥棒!」で始まる第四幕の最終景は、金貨を盗まれて狂乱するアルパゴンの一人芝居の見せ場で、主人公は、観客に訴えかけ、観客の視線、観客の笑いに恐怖を抱く。モリエールはここで劇場全体を舞台空間にしてしまっている。

モリエール(1622〜73)フランスの劇作家・俳優。パリ生まれ。オルレアン大学で法学士になるが、劇団を結成して俳優の道をえらぶ。破産して投獄され、その後十年あまりは旅回り役者。58年パリにもどってルイ14世の御前公演で大成功、以後数々の名作喜劇・笑劇を書き、フランス古典劇の完成者のひとりとなった。代表作「才女きどり」「タルチュフ」「ドン・ジュアン」「人間ぎらい」「守銭奴」「町人貴族」「女学者」など。

立ち読みフロア
【ヴァレール】 どうしたんです、エリーズさん、固い誓いを結んでくださったのに、そのあと急に沈んでしまって? ぼくが小躍りしている最中に、ああ、溜息なんかついて! ぼくを幸福にしてくださったのが心残りなんでしょうか? 恋心のあまり、ぼくが無理強いしたかも知れないあの約束、後悔していらっしゃるんでしょうか? 
【エリーズ】 いいえ、ヴァレール、あなたを思ってしたことを後悔するはずがないわ。なにかとっても優しい力に引きずられるよう、あんなことしなければよかったと考える気力もない。でも、打ち明けていうと、なりゆきが不安なの。ここまでお慕いしてはいけなかったのかしらと、心配だわ。
【ヴァレール】 えっ、どんな心配です、エリーズ、ぼくに好意をおもちのうえで?
【エリーズ】 ああ、一度に、それも抱えきれないほど。父親の立腹、家族の咎め、世間の非難……。でも、ヴァレール、なによりもあなたの心変わり、うぶな娘が心のたけを示すと、男心がお返しにくださるという、あのひどいそっけなさ。
【ヴァレール】 ああ! ほかの男どもからぼくを判断なさっては困る! ぼくがあなたからお受けしたものに背くかも知れない――そうおっしゃるんですね、エリーズ? じゃいっそ、なにもかも疑ったがいい。いまのぼくはあなたを思う気持でいっぱい、この気持は命のかぎりつづくでしょう。
【エリーズ】 まあ、ヴァレール、だれでも言いそうなそのせりふ! 男のかたの言葉はどれも似たりよったり、違いをはっきり示すのは行動だわ。
【ヴァレール】 行動だけが男の尺度だとおっしゃるなら、せめて行動からぼくの気持が判断できる時をお待ちになること、行くさきざきを気に病むあまり、ぼくに罪をきせるのはおやめください。ひどいじゃありませんか、疑いの目を向けてひとをいじめるとは! 時間をください、ぼくの気持がいかに真剣なものか、いくらでも証拠をお見せする。きっと納得していただけますから。
【エリーズ】 まあ! 好きなかたのおっしゃることは、すぐ信じてしまう。その通りよ、ヴァレール、あなたの心はわたしを欺いたりしない。あなたの気持にいつわりはなく、わたしをいつまでも思ってくださる。ええ、もうけっして疑ったりしないわ。心配が軽くなった。あとは、ひとからとやかく言われなければいいの。
【ヴァレール】 なぜそんなことを気になさる? 
【エリーズ】 みんながわたしと同じ目であなたを見さえすれば、なんの心配もない。だって、こんなにもすてきなかたに、わたしがこうするのは当たりまえですもの。わたしのこの思いはあなたのお人柄ゆえ、それともうひとつ、あなたへの感謝の気持から。――あれはきっと神さまのお引き合わせだったのね、わたしは絶えず、あなたと初めて見つめあった、あのおそろしい災難のあった日を思いうかべます。荒れ狂う波の中から命を賭けてわたしを救ってくださった驚くばかりの勇気、水から引きあげてくださったあとの親身もおよばぬ介抱、時が経っても、つらい目にあっても、変わらずに捧げてくださった燃える思い――あなたは親も祖国も忘れてこの土地に留まり、わたしのために身分をいつわり、わたしに会いたい一心で、お父さまの使用人の姿になった――そうしたすべてがわたしをとらえてしまったわ。結婚の約束をしたのも、わたしからすれば当然すぎるくらい。でも、ほかの人たちは当然と思うかしら。わたしと同じ見方をしてくれるとはかぎらないでしょう。
【ヴァレール】 おっしゃった中で、ぼくの自負しうるものがあるとすればただ一つ、ひたむきな恋心でしょう。あなたの気がかりについて言わせていただければ、お父さまご自身があなたの世間体をつくろう役をつとめていらっしゃるのでは? ひどいケチンボウの上に、子供には徹底した頑固おやじ、あれなら、もっと思いきったことをしても大目に見てもらえるでしょう。エリーズさん、ごめんなさい、あなたの前でこんな口をきいたりして。でも、この件にかんしては、おわかりでしょう、よく言うほうがむずかしいんだ。けっきょく、望みどおりに両親が見つかれば、お父さまを味方に引きいれることもできなくはない。その知らせを待ちかねているんですが、なかなか来ないようなら、こっちから探しに出てもいい。
【エリーズ】 まあ、ヴァレール、お願いだからここを動かないで。いまのところはお父さまにどうやって調子を合わせるか、それだけを考えて。
【ヴァレール】 ぼくの苦心はご存じのとおり。まず、うまいお世辞をふりまいたでしょう、雇っていただいたときに。たえずご機嫌をとり結ぼうと、お気持ちには同感、ご意見はごもっとも、という顔をしつづけている。なんとか可愛がられようと、毎日毎日がたいへんなお芝居、ずいぶん進歩したんですよ。人の心をつかむコツがわかってきた。――相手の好みに合ったことをしてみせる、主義主張をうのみにする、欠点を褒めそやし、することなすことに拍手喝采。お世辞が過ぎやしないかとの心配は無用、見えすいていてもかまわない、どんな利口な人もおべっかにはころりと参るんです。途方もないこともあほらしいことも、さじ加減ひとつ、褒め言葉にして呑みこませてしまえば、他愛もない。たしかに気がひけますよ、この仕事は。しかし、ひとを抱きこもうという場合、むこうに調子を合わせるのは当然のこと、こっちのものにするにはそれしか手がないんですから、おべっかを使うほうに罪はない、おべっかを受けたがるほうが悪いんです。
【エリーズ】 それにしても、どうして兄さんを味方につけてくださらないの? 召使いの口からわたしたちの秘密が洩れたりしたら、たいへんよ。
【ヴァレール】 あっちもこっちも、というわけにはいきませんよ。親父さまと息子どの、だいぶ気心も違いますから、両方いっぺんに信用をうるのは簡単ではありません。それより、あなたからお兄さまに働きかけてみたら? きょうだいの仲をせいぜい利用して、ぼくたちの陣営に引きこむんです。ほら、お兄さまだ、ぼくはひっこみます。話をもっていくには絶好の機会。ぼくたちのことについては、あなたのご判断しだい、適当なところを打ち明けてください。
【エリーズ】 兄さんに告白する勇気が出るかしら?


……第一幕 第一景より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***