「餌のついた釣り針」

E・S・ガードナー/高橋豊訳

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500円

メイスンの自宅の電話が鳴り、至急依頼したいことがあると言う。メイスンは興味をおぼえ、嵐をついて事務所に急行した……電話の主が現われたが、その依頼内容は奇妙なものだった。同行した女性の代理人になる約束をしてほしい、ただし彼女の正体は明かせないというのである。その女性を見たメイスンは驚いた。黒いレインコートと帽子で身を隠したうえ、顔にも仮面をつけている。身許はおろか顔すらわからない依頼人……雲をつかむような話にさすがのメイスンも困惑する……シリーズ屈指の野心作。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。

立ち読みフロア
 ペリイ・メイスンの電話帳に登録されていない私用の電話番号を知っているのは、この町に二人しかいなかった。一人は彼の秘書のデラ・ストリート、もう一人はドレイク私立探偵社のポール・ドレイクだった。
 雨が間をおいてはげしく窓に打ちつける三月はじめの嵐の夜。風はひさしの下でうなり声をあげて窓のすきまから吹きこみ、メイスンの寝室のレースのカーテンをあおって、白い幽霊のような無気味な形にふくらませてから、またぐったりと窓にもたれかからせていた。
 メイスンは寝入りばなの深い眠りの底の、もうろうたる状態の中でもがきながら、鳴りつづける電話を手さぐった。
 電話機は眠りほうけた彼の指からするりと逃げた。
 彼の右手がベッドの上の電灯から垂れ下がっている鎖を見つけた。同時に電話機の上へ伸ばされていた左手がコードにからまって、電話機を床へ引き落とした。
 やっと目が覚めた彼は、電話機を元へもどし、受話器を耳にあてがっていった。「おい、デラ、きみはなぜ人並みの時間に寝ないんだ」
 男の声がいった。「メイスンさんですね?」
 メイスンはびっくりしていった。「ええ、そうですけど、あなたは?」
 その声はてきぱきと答えた。「こちらはキャッシュです」
 メイスンはベッドの上に起きあがって、枕で上体を支えた。「ほう、それはおもしろい。キャリーはどうしてますか。元気ですか」
 相手の声は一瞬とまどって、「キャリーですって?」と、訊き返した。「だれのことをいってるのか、さっぱりわかりませんが」
「おやおや、もしあなたがキャッシュなら、キャリーを知ってるはずですよ」と、メイスンはおどけた調子でいった。
「ああ、語呂合わせか」その声はユーモアのセンスのない男らしくしかつめらしい、いらだたしげな調子をおびていた。「そうとは思わなかった」
「で、どんなご用ですか」
「急いであなたの事務所へいらしていただきたいのです」
「しかし、わたしとしては、寝床を離れたくないですよ」
 相手の男は注意深く言葉を切りつめていった。「メイスンさん、わたしの財布の中に千ドル札が二枚あります。もしあなたが事務所ヘいらっしゃって、わたしがおねがいした仕事を引き受けてくださったら、予約料として、その二千ドルを払います。それからまた、わたしのためになんらかの活動をしていただくようになったときは、一万ドルを追加して払うことにしましょう」
「殺人事件ですか」と、メイスンはたずねた。
 男の声は一瞬ためらってから、「いいえ」
「あなたの名前を正確におっしゃってください」
「残念ながら、それは申し上げることができないのです」
 メイスンはいらだたしげにいった。「電話をかけて大金をやるというだけなら、五セントしかかかりませんよ。わたしは事務所へ行く前に、だれと取引しようとしているのかぐらいは、知っておきたいですね」
 男の声はまたしばらくためらってからいった。「ジョン・L・クラグモァです」
「お住まいはとこですか」
「ユニオン・ドライヴ五六一九」
「わかりました。わたしは事務所まで行くのに二十分かかりますが、あなたはそれまでに向こうに行けますか」
「はい。ご足労をおかけして申しわけありませんが、よろしくおねがいします」と、男は丁重にいって電話を切った。
 メイスンはあわただしくべッドから抜け出して、電話帳を手に取った。クラグモァという名は、ユニオン・ドライヴの住所に登録されていなかった。
 メイスンはドレイク私立探偵社の電話番号をダイヤルした。夜勤の探偵が退屈そうな単調な声で応答した。「はい、ドレイク探偵社です」
「メイスンだ」弁護士はてきぱきといった。「ぼくの事務所である人と会う約束をした。その男はたぶん車でくるだろう。そこのブロックの両端に探偵を配置してくれ。それから、ブロック内に駐めてあるすべての車のナンバーを調べてくれ。できるだけ多くの情報をかき集めて、ぼくがそこへ行ったときに報告できるようにしておいてくれ。事務所へ行く前に、きみたちのところにちょっと立ち寄るつもりだ」
 メイスンは電話を切ると、パジャマを脱ぎ、急いで服に着替えながら腕時計を見て、真夜中を十分すぎていることを知った。それから乱れた髪をくしで手早く整え、レインコートで身をつつみ、部屋の中をざっと見まわし、このアパートメント・ホテルの夜勤の職員に電話して、車庫から彼の車を出しておくように頼んだ。それから電灯を消し、ドアをしめ、エレベーターの呼び鈴を鳴らした。
 黒人のエレベーター・ボーイはけげんな顔でメイスンを見た。「ものすごい雨が降ってますよ、メイスンさん」
「どしゃ降りかい」と、メイスンは訊いた。
 ボーイは白い歯をぱっときらめかせた。「ええ、たいへんな嵐ですよ。こんな夜中にお出かけですか」
「悪人は暇なしさ」
 ボーイは目をくるっと回した。「あなたは悪人なんですか」
 エレベーターがロビー・フロアになめらかに停まったとき、メイスンはにっこり笑っていった。
「いや、ぼくの依頼人たちのことだよ」
 彼はデスクに坐っている夜勤の職員にあいさつしていった。「車庫の係に電話しておいてくれたかい」
「はい、あなたの車は待機しているはずです。でも、今夜はひどい嵐ですよ、メイスンさん」
 メイスンはぼんやりうなずいて鍵をデスクにほうり投げ、レインコートのすそを脚ではじくようにしながら、車庫へ通じる階段の方へ急ぎ足で行った。夜勤の職員はメイスンの鍵を所定の場所に入れる前に手の中で重さを測りながら、興味深げにメイスンの後ろ姿を見守っていた。
 やがて弁護士は車庫の守衛とあいさつを交わして大型のクーペの運転席に身をすべりこませ、エンジンをうならせながら螺旋状の傾斜路を登った。車庫の通路から出たとたんに風がはげしく襲いかかり、豪雨が車体をたたきつけてフロントグラスの上を滝のように流れはじめた。メイスンはワイパーのスイッチを入れ、ギアを慎重にセカンドに入れて、排水溝からふち石の高さまであふれた水の中をそっと横切った。
 へッドライトが雨足を照らし出して、前方の舗道から無数のきのこが生えているように見せた。メイスンはギアをトップに変えて、雨におおいつくされた人影のない通りをドライヴするやっかいな仕事に専念した。
 やがて彼は、事務所のあるビルの前のブロックに車が一台も駐められていないことに気づいた。メイスンが定期的に一台分だけ借りている駐車場には、ドレイク探偵社の古ぼけた車が二台あるだけだった。彼はそこに車を駐めてロックし、嵐の中に出た。雨が顔をたたき、レインコートから流れ落ちて足首にはねかかった。傘の大嫌いな彼は、レインコートのポケットに両手をつっこみ、嵐の力に抵抗するために頭を下げて、駐車場の水たまりをはね飛ばしながら小走りに走って、彼の事務所のあるビルの明るいロビーのスイングドアを押した。
 床の上につけられたばかりらしい濡れた足跡が、何人かが彼よりも先にそこを通ったことを示していた。彼はエレベーターの前で立ちどまって夜勤の守衛を呼ぶベルを鳴らし、たっぷり一分間待っていると、地下室と夜間のエレベーターの管理に当たっているスエードが、ねぼけまなこでエレベーターをロビーへあげてきた。
「ひどい雨ですね」と、守衛はいってあくびした。
 メイスンはデスクの方へ行って、夜間にそのビルに入る外部の人びとが署名することになっている帳簿に目を通した。「だれかぼくを訪ねてこなかったかい、オール」
「ええ、まだだれもいらっしゃいませんよ。たぶん雨がひどいので遅れてるのでしょう」と、守衛はいった。
「ドレイク探偵社のやつが四、五分前に降りてきただろ」
「はい」
「まだもどってこないのかい」
「いいえ、もどってきました」
「いまのところ、ほかにだれも入ってこないんだね」
「はい」
 守衛はエレベーターを上へあげたが、床から六インチも高く停まりそこなった。「これで結構だよ、オール」と、メイスンはいった。
 エレベーターのドアがなめらかに開き、メイスンは長い廊下の暗がりの中へ出た。そしてその廊下がTの字に分かれているところまで足早に行くと、自分の事務所の方へ左折せずに、ドレイク探偵社のすりガラスのドアを押しあけ、背のないベンチと背のまっすぐな二つの椅子をやっと収容できる広さしかない待合室を通り抜けようとした。
《案内係》と記されたアーチ型の格子窓の後ろの夜勤の電話交換手が顔をあげて、スイングドアの掛け金をあけるボタンを押した。
 小柄な男がラジエーターのそばでズボンのすそを乾かそうとしていた。ぐっしょり濡れたソフト帽と水で光っているレインコートが、ラジエーターの近くのラックに掛けられていた。
「やあ、カーリー、きみは見切りをつけたのかい」と、メイスンは声をかけた。
「見切りをつけた?」探偵は濡れた靴をうらめしそうに見おろしながら訊き返した。「どういう意味です、見切りをつけたとは」
「オールはだれもこなかったといってたよ」
「そりゃ、オールの知らないことはどっさりありますよ」
「じゃ、だれかきたんだね」
「ええ、二人で」
「彼らはどのようにして入ったんだ」
「男は鍵束を取り出してエレベーターの錠をあけ、電灯をつけて、すばやく女といっしょにここへあがってきたんですよ。わたしがあがってきたときは、そのエレベーターはドアに錠がかけられ、電灯が消えていました」
「オールはそれに気づかなかったのだろうか」と、メイスンは興味深げに訊いた。
「ええ、彼は眠くて目をあけているのに苦労していましたから」
「そうすると、男と女がこの階にきているわけだね」
「はい」
「何分ぐらい前から?」
「五分ぐらい待っていますよ……。しかし、いやはやもう、尾行の仕事は晴れた夜を選んでもらいたいですな。わたしは沈没した潜水艦にとじこめられているような気分でしたよ」
「彼らをどこで見つけたの」
「彼らは車できました。男が運転してね。彼は女をロビーにおろしてから、車を走らせて角を曲がって行きました。わたしは彼が車を駐めようとしてるのだと察しがついたので、のんびり待ち構えてから、こっそり尾行してビルに入り、この階へあがってきました」
「車の方はどうした」
「ナンバーを書きとめ、登録証明書を調べました。所有者はオセアニック三二一二のロバート・ペルサムとなっていたので、とりあえず電話帳で調べてみました。職業は建築家になっていました」
 メイスンは考えこみながらポケットからシガレット・ケースを取り出し、ラジエーターの側面でマッチをこすって、タバコをふかしはじめた。「女の方はどうなの」
「彼女については、何やら奇妙なことがあるんです」と、カーリーはいった。「女の子といっていいのかどうか……とにかく若い女であることしかわからないんですよ。大きな黒いレインコートにすっぽりくるまって、靴が足の大きさの二倍もあるような歩きかたをしていたし、おまけに顔を新聞紙でおおっていたんですから」
「新聞紙で?」
「ええ、そうなんです。彼女は車から降りたとき、まるで帽子をかばうように新聞紙を頭の上においていましたが、エレベーターに乗るときは、新聞紙で顔をおおっていました。わたしが彼らを見たのはそれが最後だったのです」
「彼らはこの階にいるんだね」
「エレベーターはそうです」
 メイスンはいった。「それじゃ、ペルサムについてできるだけ多くのことをつかんでくれ」
「いま探偵を一人その仕事につけて調査してるところです。わたしがあなたの事務所へ報告に行きましょうか」
「いや、ぼくの方からきみに連絡しよう。一五分ほどたったら、ぼくの事務所へきてウィスキーを一杯飲んでいいよ――ポールが彼の机の中に瓶をおいていなかったらの話だがね」
「それはどうもありがとうございます、メイスンさん。遠慮なくいただきますよ」
「あっ、それよりもいい方法を思いついた。ぼくは受付の机の上に瓶をおいて、ドアの錠を掛けないでおくことにしよう」
「なるほど、その方が手っ取り早いですね。ありがとうございます」
 メイスンが事務所の方へ向かって廊下を歩いて行くと、彼の靴のかかとの音が静まりかえった壁に反響してかん高く鳴りひびいた。
 人影がなく、彼自身の足音以外は何の音も聞こえなかった。彼が事務所のドアをあけ、錠をかけずに彼専用の事務室に入って机の引き出しをあけて、一パイントのウィスキーを見つけ、受付の机の上にそれをおいたとき、ドアがあいて三十代を半ばすぎた年ごろのやせぎすな男が話しかけた。「メイスンさんですね」
 メイスンはうなずいた。
「わたしはペルサムです」
 メイスンは眉をあげた。「あなたの名前はクラグモァだと思ってましたけど」
「ええ、そうだったんですが、いろいろ事情があってそれを変えたのです」と、ペルサムは無造作にいった。
「その事情というのはどんなことなのか、説明していただけませんか」と、メイスンはたずねた。
 ペルサムは唇をちょっとゆがめて微笑した。「まず第一に、わたしは車を駐めたときからずっと尾行されていました。巧妙に行なわれていたのですが――とにかく尾行されていたのです。それからわたしはドレイク探偵社の事務所がこの階にあることに気づきました。あなたはエレベーターでこの階へあがってくると、その事務所へ行って、五分ばかりそこにいました。それからあなたがいまウィスキーの瓶を目につきやすいようにその机の上においているのを見ました。こうした情況から判断して、わたしはくだらない擬装をやめることにしたのです。ほんとうの名前はペルサムです――もう隠しだてはしません。あなたはみごとに最初の勝ち札を手に入れたわけですが、しかしあなたの札に値打ち以上の値をつけるのはよしてください」
「それじゃ、どうぞこちらへ」メイスンは専用の事務室を指さした。「あなたおひとりですか」
「そうでないことはご存じでしょう」
「同伴の女性はどなたですか――彼女はあなたの用件と関係があるのですか」
「じつはそのことについてご相談したいのです」
 メイスンは相手に椅子をすすめ、レインコートを脱いで帽子のつばから水滴を払い落とし、机の後ろの大きな回転椅子にふかぶかと腰をおろした。
 来訪者はおもおもしく紙入れを取り出し、千ドル札を二枚抜いた。「メイスンさん、わたしが予約料として二千ドルを払うといったとき、あなたはこんなに早くわたしの札の色を見るとは思わなかったでしょうな」
 彼は二枚の千ドル札をメイスンに手渡さず、まるでメイスンの机の端におこうとしているような手つきで持っていた。
「いったいどんな事件なんです」と、メイスンはたずねた。
「事件なんかありません」
 メイスンは眉をあげた。
「わたしは困ってるのです」
「あなたが?」
「そうです」
「どんなことで?」
「わたしはそのことについてあなたに相談したいのではありません。それはわたし自身の手で処理する方法があります。わたしがあなたにおねがいしたいのは、彼女を守っていただくことです」
「何から守るのですか」
「あらゆるものからです」
「で、彼女はどういう人なんですか」
 ペルサムはいった。「まず、わたしはあなたがわたしたちの弁護士になってくださるのかどうか知りたいのです」
「そうするためには、仕事の内容をもっと知らなきゃ」と、メイスンはいった。
「たとえばどんな点について?」
「何が起ころうとしているのか――彼女を何から守りたいのか、といったことです」

……冒頭より

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