「黒船擾乱」――徳川幕閣盛衰記( 下)

笹沢左保/作

ドットブック版 352KB/テキストファイル 229KB

700円

たぐいまれな美男にして改革の旗手田沼意次(たぬまおきつぐ)。田沼派追放を画策し「寛政の改革」を推し進めた松平定信(まつだいらさだのぶ)。実力者への賄賂により地位を固めた水野忠邦(みずのただくに)による「天保の改革」――だが、幕閣たちの熾烈な権力争奪戦をよそに、「外圧」は着々とこの国に迫っていた。飢饉、一揆が続発し、大塩平八郎の乱が起こり、太平が足元から揺らぐとき、頻発する黒船の来航は幕閣たちに「開国」を強いた。通商条約を次々と結んだ大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、将軍継承問題でもイニシアティブを握って一橋派を弾圧し(安政の大獄)、ついに桜田門外で暗殺される。
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一章 田沼の出現

 九代将軍の家重(いえしげ)は、生涯、手に負えない暗君のままでいた。出来の悪い人間が、急に一変するような奇跡は起こらない。生まれつき暗愚だった家重は、ついに死ぬまで賢くなり得なかった。
 家重の肉体も、決して健康ではなかった。虚弱体質というか、病床につくことが多い。それでいて、十代のときから大酒呑みとなった。
 酔っても差し支えないときは、朝から酒になる。一日中飲み続けると、もうとまらない。いまでいうアルコール依存症で、酒なしではいられなかった。
 虚弱体質で大酒呑みのせいか、家重はまだ若いときから中風(ちゅうぶう)のような病いにかかっている。もともと言語不明瞭だったのが、そのために一段と舌の回りが悪くなった。
 それでも家重は、酒を控えようとしない。更に家重は、性欲だけは強かった。女の身体ばかりを求める房事(ぼうじ)過多は、いっそう家重を駄目にする。
 酒と女、酒色に耽るのが家重の毎日であった。幕政などには、見向きもしない。何ひとつ理解できないのだから、まったくの役立たずである。
 しかし、だからといって家重の存在を、無視するわけにはいかない。家重が何か言えば、それに対する返事が必要となる。家重の質問にも、答えなければならない。家重から命令や指示があれば、そのとおり応ずるのであった。
 そこで何よりも困ったのは、家重の不明瞭な言葉だった。家重の言語障害はますます進行して、何を言っているのか誰にもわからなくなっていた。
 いや、たったひとりだけ、家重の言語の意味を読み取れる男がいた。大岡忠光(ただみつ)という者であった。大岡忠光と大岡越前守忠相(ただすけ)は同族だが、いわば遠縁であって他人と変わらなかった。
 大岡忠光は宝永六年(一七〇九年)に、三百石という小身の旗本の長男として生まれている。大岡忠相より、三十二歳も若い。家重とは、二つしか違わない。
 大岡忠光のほうが二歳うえだが、家重とは同世代といえるだろう。本来、三百石の旗本の子であっては、よほど幸運でなければ大出世のコースを歩める大岡忠光ではなかったのだ。
 大岡忠光は十二歳のときに、初めて吉宗に拝謁を許される。
 十四歳で、家重の御小姓に任ぜられる。
 十五歳から、西の丸さまとなった家重に仕える。
 以後、大岡忠光は家重のそばを離れていない。家重は同年配の大岡忠光に、心を許すことになる。厳しく諌めたりもしない忠光が、家重は気に入ったのである。
 一方の忠光は御小姓、御小姓頭、御側衆と常に側近として家重の身近にいたことから、難解な家重の言語の意味を読み取るという特殊技術を会得した。この特殊技術こそが、重大だったのだ。
 家重に何か言われたときには、忠光に通訳を頼むほかはない。忠光の通訳がなければ、君臣のあいだの意思疎通が図れないのである。家重の言葉の意味が不明だからと、家臣はそれですまされないのであった。
 家重にしても、忠光がそばにいなければどうすることもできない。そうした形で家重と忠光は、特別なパイプによって結ばれるようになった。家重は当然、忠光を寵臣として扱うことになる。
 家重は御殿女中を何人も引き連れて、城中の庭園を散策していた。そのうちに家重が、何やら口走った。だが、御殿女中たちはひとりとして、家重の言葉が理解できない。
「……を持て」
 と、語尾だけはわかる。
 家重は何かを持ってこいと、命じているのに違いない。しかし、何を持ってくればいいのか、御殿女中には通じない。御殿女中は、青くなって狼狽(ろうばい)する。
 家重はイライラすると、甲高い奇声を発する。そうなればなおさら、言語は不明瞭であった。
「大岡さまを……」
 御殿女中のひとりが、忠光を呼びに走った。
 間もなく、忠光が駆けつけてくる。家重は改めて、忠光に何やら伝える。それだけで、忠光には意味が通じる。
「風が冷とうゆえ、お羽織を持てとの仰せにござる」
 忠光は事もなげに、御殿女中たちにそう告げた。

……冒頭より


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