「幕末動乱の男たち」

(上・下)

海音寺潮五郎

(上)ドットブック 453KB/テキストファイル 226KB

(下)ドットブック 422KB/テキストファイル 194KB

各600円

 

幕末動乱の時代、勤王か佐幕か、攘夷か開国か、それぞれの立場は異なっても、激変する世相の中であくまでも己が志に忠実であろうとした維新期の人物群像を活写。その苛烈な生き様を、著者は極限まで潤色を排した筆致で鮮やかに描き上げる。 激動期の多面的な展開が鮮やかに浮かびあがる。上巻では有馬新七、平野国臣、清河八郎、長野主膳、武市半平太、小栗上野介の6人を、下巻では吉田松陰、山岡鉄舟、大久保利通のほか、田中新兵衛、岡田以造、河上彦斎の3人の刺客を取り上げる。綿密な実証に基づく海音寺潮五郎の「史伝」文学は、司馬遼太郎を始め多くの後進作家に大きな影響を与えた。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア
 新七は生来、激烈・純粋の性質の人であった。彼自身もその自叙伝に、「天性急烈で、暴悍(ぼうかん)で、長者の教えに従わず、しばしば叱(しか)られた」と書いている。こんな性質であるところに、時代の思潮に尊王賤覇(せんは)の傾向があったので、彼の思想ははげしくこれに傾斜している。彼の十三の時、十二代将軍家慶(いえよし)が、将軍宣下(せんげ)を受けているが、彼は国許(くにもと)にいてこれを聞き、父にいきどおりの手紙を書いている。
「徳川が将軍宣下を受けたということですが、これは京に上ってお受けすべきで、江戸にいながらお受けするとはけしからんことです」
 これにたいして、父四郎兵衛は、
「将軍はかしこくも天皇から大将軍の職任をこうむられたのだから、徳川などと呼びすてにしてはならない。徳川公と書くべきである」
 と訓戒してやっている。
 このような彼が、間もなく崎門学(きもんがく)〔山崎闇斎(あんさい)派の朱子学〕の洗礼を受けたので、その性質と思想とは一層純粋・激烈となった。崎門学は朱子学といわず、あらゆる儒学の中で、最も大義名分を重んじ、その学風の激烈で純粋なことは、学祖の闇斎以来のことである。
 自叙伝によると、彼は十四歳の時から崎門学を修めて、友人らとともに「靖献(せいけん)遺言(いげん)」〔闇斎の高弟浅見絅斎(けいさい)の著書。中国の忠臣烈士の列伝である〕を講習したとあって、師匠の名が出ていないから、崎門学を学んだというのも、師匠にはつかず、その学派の人々の著書を手に入れて自習したのであろう。つまり、たまたまついた師匠が崎門学の人であったというのではなく、自らの好みによってこの学派をえらんだのである。
 十九の時、江戸遊学の藩許を得て、途中京の父の許にしばらく滞在して、江戸に行き、闇斎学の泰斗である若狭(わかさ)小浜(おばま)の藩士山口菅山(かんざん)の門に入ったが、翌年からは師の代講をするほどとなったことを自叙伝にしるしている。よほど精励したのであろうが、山口門に入るまでに独学で相当深いところまできわめていたのであろう。
 この翌々年、京都に来て、梅田雲浜(うんぴん)と深い交わりを結んでいる。これは山口菅山の紹介だったに違いない。雲浜は前小浜藩士であり、また崎門学の人であるからだ。平凡社版の「大人名辞典」によると、菅山の弟子である。
 新七が維新運動の舞台に登場するのは、井伊直弼(なおすけ)が大老となって、あの強烈な弾圧政策をとりはじめた時からであるが、その時までに、彼は父の死に遭って家督を相続したり、結婚して子供が生れたり、蔵方(くらかた)目付(めつけ)や江戸藩邸糾合方(きゅうごうかた)〔学問所校合方(きょうごうかた)である。図書がかりである。助教もつとめるのである〕になったり、四方を遊歴して見聞を広めたりしている。井伊の弾圧政治のはじまった安政五年には、三十四であった。
 井伊が大老となって、独断的な政治をとりはじめた時、天下の諸藩は非常な衝撃を受けたが、とりわけ、薩摩藩は最も強烈なものに感じた。
 薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は、この前年から国許にかえっていたが、最も気に入りである家臣西郷隆盛を中央に出して、越前(えちぜん)藩主松平慶永(よしなが)を助けて、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を将軍世子(せいし)に立てる運動をさせていた。
 当時の将軍家定(いえさだ)は病弱で、いささか精神薄弱で、とうてい内外の難局に処し得る人ではなかったので、賢明な将軍世子を立て、これに政治を処理させるがよいというのが、当時の最も進歩的分子の意見であった。譜代(ふだい)・外様(とざま)を問わず、賢諸侯といわれる人々、幕府内の優秀分子、皆この説を持(じ)しており、最も熱心に運動していたのは、越前慶永であった。
 西郷は中央に出て、慶永の謀臣である橋本左内(はしもとさない)、中根靱負(ゆきえ)〔雪江〕らと提携して、大いに働いたのである。
 しかし、今年の四月、井伊が大老に就任すると、当時最もやかましい問題であったアメリカとの通商条約を無勅許で〔というより朝廷の意向を全然無視してだ〕取結び、つづいて将軍世子を紀州慶福(よしとみ)〔後の家茂(いえもち)〕にきめたばかりか、強烈な弾圧政策を強行しはじめた。自分の方針に反対の者を弾圧しはじめたのである。水戸公父子、尾張公、一橋慶喜等の三家、三卿(きょう)、家門にも容赦はなかった。人々は慄然(りつぜん)として恐れ、口をつぐんだ。西郷はこの形勢に、
「もはや、口舌のおよぶべきところではない」
 と、見切りをつけ、国許に急行して、斉彬にこれを報告し、自分の意見をのべた。
 斉彬はうなずき、
「わしもそう見た」
 と言って、思い切った対策を披露(ひろう)した。
「井伊を廃し、幕政の改革を行えとの勅旨を朝廷から下(くだ)してもらい、兵をひきいて上京し、勅旨をふりかざして幕府に迫り、聞かずんば討つとおびやかして、無理にも聞かせる」
 という策。クーデターである。
「その方(ほう)は、大儀ながら、また京都に引返し、朝廷への運動、兵の宿舎の準備等をしてくれるよう」
 と、斉彬は言った。
 西郷はよろこびに燃えて、京都に引きかえし、着々と準備をととのえた。
 以上のことは、西郷からの知らせで、江戸藩邸の同志らにも知らされた。人々は空を蔽(おお)う一面の暗鬱(あんうつ)な雲の中に青天のひらけて行くのを見る思いで、よろこびに沸き立ち、首を長くして、斉彬の上京を待った。新七もその一人であった。
 ところがだ、七月下旬、思いもかけない知らせが国許からとどいた。
「去る七月十六日、太守(たいしゅ)様が永眠された」
 というのである。
 おどろきもし、疑いもしたが、事実であった。斉彬は計画実行の準備のため、連日炎天の下に、鹿児島郊外の天保山(てんぽざん)の調練場で、ひきいて出て行く兵らを猛訓練していたが、この八日から痢病にかかり、次第に衰弱がつのり、十六日の夜明け、ついに空(むな)しくなったというのである。遺言によって、後嗣(あとつぎ)には弟久光の長男又次郎が立つことになったという。
 新七らの悲しみと失望は言うまでもない。
「天ついに日本に幸いせず」
 と悲嘆し、絶望の淵(ふち)にしずんだ。
 斉彬についで立つという又次郎が、斉彬の志をつぐということは考えられないことであったのだ。

……「有馬新七」より


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