「気球旅行の五週間」

ジュール・ヴェルヌ/江口清訳

エキスパンドブック 992KB/ドットブック版 252KB/テキストファイル 214KB

500円

気球によるアフリカ横断SF冒険小説。同国人ナダールの気球によるパリからハノーヴァーへの空の旅にヒントを得、リヴィングストンらによるアフリカ探検が全ヨーロッパの注目の的となっている時代の空気を敏感に感じ取って、ヴェルヌはこの作品を書いた。冒険旅行の発進はアフリカ東岸のザンジバル島、ヴェルヌはファーガソン博士、ディック・ケネディ、ジョーの3人にヴィクトリア湖からチャド湖までの前人未踏の地域をたどらせ、彼らは最後には命からがら、ようやく西岸セネガルのグイナの滝で文明世界への脱出に成功する。この作品はあっというまに大成功を収めて各国で翻訳刊行され、ヴェルヌは一躍人気作家となった。彼の「驚異の旅」シリーズはこれが第一作となって始まる。

ジュール・ヴェルヌ(1818〜1905)
フランス西部ナントの生まれ。11歳のとき従妹にサンゴの首飾りをプレゼントしようと、見習い水夫として船に乗り込む寸前家族に発見され、つれもどされた逸話は有名。1863年に発表した『気球旅行の五週間』で一躍人気作家に。『地底旅行』『月世界旅行』『グラント船長の子供たち』『海底二万リュー』『八十日間世界一周』『二年間の休暇』と続く「驚異の旅」が代表作。

立ち読みフロア
 一八六二年一月一四日、ワーテルロー広場三番地のロンドン王立地理協会の集会には、たくさんの聴衆が集まっていた。会長フランシス・M……卿の演説は、拍手でしばしば中断されたが、そのなかにあって彼は、名誉ある同僚に向かって、ある重要なことを伝えたのだった。
 雄弁そのものともいえる、たぐい稀なるこの演説は、祖国愛に満ちあふれた重要なものであって、それは大げさな言葉で終わった。
「すでにご承知のとおり、各国家はそれぞれ、あまねくお互いに先頭に立って進んでいますが、わがイギリスも、その大胆な旅行者による地理学上の行程の発見という点では、つねに他の国家の先頭に立っております(数多くの賛同)。わが輝かしい男児の一人であるサミュエル・ファーガソン博士も、祖国の名誉をけがすものではありますまい(四方から、そのとおり、そのとおりの叫び声)。この試みにして、もし成功するならば(成功するに、決まってらあ!)、アフリカ大陸の地図上に散らばっている各国家の姿を完全なものにし、それらを結びつけることができるでしょう(はげしい拍手)。もしも失敗するとしても(けっしてありえない!)、少なくともこの試みは、人間の英知のもっとも大胆な構想の一つとして、後世に残ることでしょう!(熱狂した聴衆の床を踏みならす足音)。
「万歳! 万歳!」このような人を感動させる言葉におおいに共鳴した人びとは、口ぐちに叫んだ。
「勇敢なるファーガソン万歳!」聴衆のなかでも、もっとも感動をあらわさずにはいられない一人の男が、大声で言った。
 熱狂する叫び声が、ひびきわたった。ファーガソンという名前が、みんなの口をついて出た。この名はイギリス人の喉を通ると奇妙に効果があると、人びとは信じるまでにいたったのである。そのために会場が、揺れ動いたほどだった。
 だが会場には、年とった顔、疲れた顔、たくさんの顔がならんでいて、それらの勇敢な旅行者たちは、その前進する精神によって、世界の五つの大陸をのしまわったのだった! そのすべてが肉体的にも精神的にも、多かれ少なかれ、難破船や、火災や、インディアンのまさかりや、野蛮人の棍棒や、処刑台や、ポリネシア原地人の胃袋から遁れてきた人たちなのだ! しかしフランシス・M……卿の演説中に、心臓の鼓動をおさえないものは一人もいなかった。それは、人の記憶の存するかぎり、たしかにロンドン王立地理協会の行なった演説のなかで、もっとも成功したものだった。
 だがイギリスでは、熱狂ぶりは、言葉だけで終わることはない。熱狂でわきたつと、ロンドン造幣局の印刷機械よりもっと早く貨幣をつくりだすのである。即刻その場で、ファーガソンのために義捐(ぎえん)金が集められ、それは二五〇〇リーヴル〔六万二五〇〇フラン〕にも達したのである。
 会員の一人が、ファーガソン博士を正式に紹介してはもらえないものかと、会長にたずねた。
「博士は、この会議の意向を尊重するでしょう」と、フランシス・M……卿が答えた。
「呼んでくれ! 呼んでくれ!」と、みんなは叫んだ。そのような大胆きわまることを企てた男を自分自身の眼で確かめたかったのである!
「まったく、信じられない計画だ!」一人の怒りっぽい最古参の船長が言った。「われわれをかつごうとしているんじゃないかね!」
「もしファーガソン博士という男がいなかったら!」と、意地わるそうな声が聞こえた。
「そういう男をつくりだせばいい」こうしたまじめな協会にも、愉快な会員はいるものである。
「ファーガソン博士を入場させなさい」フランシス・M……卿が、簡単にそう言った。
 そして博士が、割れるような拍手のなかを、感動した様子を少しもみせずに入ってきた。
 それは四〇歳ほどの、中肉中背の男だった。多血質であることは、あからんだその顔色を見ても、それとわかった。ととのった冷静な顔つきだが、鼻だけはりっぱで、発見をしようとする男にふさわしく、船のへさきのようにそり返っていた。眼はたいへんやさしくて、大胆さよりも知性にあふれ、それが顔に大きな魅力を与えていた。腕は長く、地面を踏みしめている両足は、彼がたいへん健脚家であることを示していた。
 からだ全体からどっしり落ち着いた博士の人柄が感じられ、この男が人をだますような計画をたてる男だとは考えられなかった。
 こうした叫び声と拍手とはひきもきらず、博士がほほえみながら身ぶりよろしくそれを制止するまで、やまなかった。博士は、紹介するためにととのえられた椅子のほうに進んだ。そこから直立不動の姿勢のまま、力強い視線で見やりながら、右手の人さし指を空高くあげて口を開くと、
「より高く!」
 と、たったひとこと言っただけだった。
 いやはや! ブライト、コブデン両氏の予期せぬ爆弾質問も、イギリスの山くずれを防ぐために莫大な資金を要求したパーマストン卿の演説も、これほどの成功をおさめなかった。フランシス・M……卿の演説も色あせ、それにまさった。博士は崇高であり、偉大であり、しかも控え目であり、つつしみぶかかった。そして、その場にふさわしい言葉を言ったのだった。
「より高く!」
…… 《一 「旅行社クラブ」の宴会》より

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