「樽」

クロフツ作/田村隆一訳

ドットブック版 354KB/テキストファイル 308KB

600円

ロンドン港にルーアンから着いた特別に頑丈なワイン樽には女性の死体が詰められているようだった。だが名宛て人はまんまと裏をかいて、その樽を運び去った。宛先の住所はでたらめだった。ロンドン警視庁のバーンリー警部の追跡によって樽はついに見つかる。そして中にはやはり若い女性の死体が……事件は国際的な広がりを見せ、舞台はパリへ、ブリュッセルへ……同じような樽は英仏の間を場所をかえて何度もやりとりされていた。錯綜した樽の往復のからくりはなにか、そして犯人は? 歴史にのこる傑作ミステリー。 

クロフツ(1879〜1957) イギリスのミステリー黄金時代を代表する巨匠のひとり。犯人の堅牢なアリバイをくつがえす「アリバイ崩し」の作風がとくに有名。デビュー作の「樽」はクリスティの「スタイルズ荘の怪事件」と同年に刊行され、黄金時代の幕をあけた。アイルランドのダブリン生まれ。17歳のとき鉄道会社にはいり、以後1929年に作家としてひとり立ちするまで鉄道技師として勤務、ミステリーを書き始めたのは40代になってからだった。なかでも「足の探偵」フレンチ警部ものが人気を博した。

立ち読みフロア
エーヴァリーは会社の自室に入ったばかりだった。彼はインシュラー・アンド・コンティネンタル海運会社の専務取締役だった。自分あての手紙や、この日の予約表に目を通すと、会社の船の運航状況の報告書を調べた。それから、しばらく考えていたが、主任のウィルコックスを呼んだ。
「今朝、ブルフィンチ号がルーアンから入ったようだが、この船には、ノートン・アンド・バンクスあてのワインが積んであるんだろうね」
「はあ、積んでおります。ちょうど、埠頭(ふとう)事務所に電話で問い合わせたばかりでして」と主任。
「社から埠頭に人をやって、特別に照合させなければいけないね。このまえのとき、うちの会社はさんざんひどい目にあっているじゃないか。だれか、たのもしいのを埠頭にやってくれないかね? だれにする?」
「ブロートンなら大丈夫です。経験もありますし」
「では、そういうことにしよう、それから、ミス・ジョンソンをよこしてくれたまえ、手紙を片づけてしまいたいから」
 この事務所は、インシュラー・アンド・コンティネンタル海運会社(通称I(アイ)・アンド・C(シー))の本社で、フェンチャーチ街の西端にあるビルの大きな一区劃にあたる二階を占めている。この会社はなかなか有力な船会社で、三百トンから一千トンの貨物船を三十数隻ももっていて、この貨物船は、ロンドンとヨーロッパ大陸の比較的小さな港々のあいだを往復している。数こなしの安い貨物輸送が商売だったが、持ち船を酷使(こくし)するようなことはなく、もっと派手な船会社とスピードの点で競争しようなどという考えも頭になかった。ま、こういったわけで、この会社は、野菜、魚類といった腐敗貨物をのぞいた、ありとあらゆる種類の貨物を引受けて大幅の商売をしていた。
 主任のウィルコックスは、いくつかの書類を手にすると、仕事をしているトム・ブロートンのデスクにつかつかと歩みよった。
「ブロートン」と主任が声をかけた、「これからすぐ、君に埠頭に行ってもらって、ノートン・アンド・バンクスあての積荷のワインを照合するようにと、エーヴァリー専務が言われているんだけどね。昨夜、その貨物が、ルーアンからブルフィンチ号につまれて来たんだよ。このまえのときは、数量があわないと文句をつけられて、うち(・・)の社はひどい目にあっているんだ。だから、こんどはヌカリのないようしっかりたのむぞ。送り状はこれだ、数量は他人まかせにしないで、一樽(ひとたる)ずつ、君が自分であたってみてくれ」
「わかりました」ブロートンが答えた、二十三歳の青年で、いかにも率直な感じの、どこか子供っぽい表情、物腰もキビキビしていて抜け目がなさそう。この事務所の単調な空気と、あの埠頭の活気にあふれた雑沓(ざっとう)とのとりかえっこなら、それこそ願ってもないことだ。青年はいそいそと帳簿を片づけると、上着のポケットに送り状を大切そうにしまい、帽子をとるなり、階段をかけおりてフェンチャーチ街にとび出した。
 四月初旬の、心もうきうきするような午前だった。肌寒(はださむ)い、にわか雨模様のいやな天気がしばらくつづいてから、やっとのことで陽春のきざし(・・・)が大気にあらわれ、いままでが気の沈みがちの悪天候だっただけに、心もおどり出したくなるようなさわやかさが感じられた。長雨がカラリとあがったときの、あのういういしい光をはなちながら、陽はかがやきわたっていた。ブロートンは、雑沓する街路を急ぎ足で通りぬけ、埠頭につづく大通りをきれ目なく流れて行く車馬や人の群れを見守っているうちに、青年の心は躍動してくるのだった。
 青年の行先きは、ブルフィンチ号が碇泊(ていはく)している聖キャザリン埠頭だった。彼はタワー・ヒルを横切り、不気味な昔の要塞の外側をまわって、汽船が横づけになっている泊渠(はっきょ)まで、まるで突進するような勢いで歩いていった。ブルフィンチ号はほぼ八百トンの船で、長くて、どちらかというと低めの船型だった。エンジンは船体の中央部にあり、ただ一本の黒い煙突には、会社のマークの、グリーンの帯が二本ついている。ごく最近、年に一度のドック入りをしてきたばかりの船体は、ぬりたての黒いペンキにすっかりひきたてられて、見ちがえるばかりにきれいに見えた。もう荷おろしがはじまっていた、ブロートンは、積荷のワインの樽がひとつでもおろされないうちに行かなければとやきもきしながらあわてて甲板(かんぱん)にあがった。
 まさに間一髪というところだった。ワインの樽がつんである、下の前部船艙(せんそう)のハッチがもうすでにひらかれていて、青年がたどりついたときには、いまにも取りはらわれようとしているところだった。彼は、その作業がすむまで、船橋の甲板に立ったまま、あたりを見まわした。
 泊渠(はっきょ)には数隻の汽船が横づけになっていた。ブルフィンチ号のすぐうしろ、つまり、その船尾の突出部(カウンター)におおいかぶさるように高々と切り立った船首を見せているのは、青年の会社の最大の貨物船スラッシュ号で、この午後、コラナとヴィゴーにむけて出航することになっていた。前の錨地(びょうち)にはクライド海運会社の船が停泊していて、ベルファストとグラスゴー行きで、この船もまた、この午後、出航することになっている。その黒い煙突から、煙りが輪をえがきながら、ものうげに澄みわたった空にたちのぼってゆく。泊渠の反対側には、I(アイ)・アンド・C(シー)の競争会社バブコック・アンド・ミルマンの持ち船であるアークテュラス号が横づけになっている。船長は『黒マック』、このニックネームは、髪の毛の色から『赤マック』と呼ばれるマックタヴィシュ船長と混同しないためにつけられたもので、『赤マック』もおなじ会社のシリウス号の船長なのである。ブロートン青年にとって、これらの船は、神秘にみちたロマンスのはるかなる世界と彼とをむすぶ環(リンク)を象徴するものであって、船の出航光景を見るたびに、その先きであるコペンハーゲン、ボルドー、リスボン、ラ・スペツィア、そして、ただ耳にするだけでも心がときめくような寄港地ならどこであろうと、自分も乗りこんで行きたいという願望だけが燃えさかるのだった。
 前部のハッチがひらいたので、ブロートンは手帳を用意して船艙におりていった。樽の陸揚げがはじまった。樽は四個一組につり索(なわ)をかけられて、船から埠頭につり出される。一組の樽が陸揚げされるたびに、書記はその数量を手帳に書きとめて、そのあとで送り状の数量と照合することになる。
 作業は迅速(じんそく)にはかどっていった。仲仕(なかし)たちはその重い樽にうまい具合につり索をかけるために汗だくになって樽ととっくんでいる。作業がすすむにつれて、ハッチの近くにつんであった荷は片がつき、こんどは船艙の奥の方から、つり索まで、樽をころがしてこなければならなくなった。
 ちょうど四個の樽がつり索にかけられてひきあげられたところだった、ブロートンがつぎの一組をあらためようとふりかえった瞬間、突然、『あ、危ない! 退け!』という叫び声がおこり、自分のからだをだれかに乱暴につかまれたかと思うと、うしろにグイッと力まかせにひっぱられた。からだが一回転したおかげで、四個の樽がつり索からはずれて、地ひびきをたてて船艙の床に落ちてくるのが青年の目にとびこんだ。さいわい、はずれたのがほんの四、五フィートばかりの高さにつりあげられたところだったのでよかったが、それでも重量のかさむ代物(しろもの)だったので、すごい勢いで落下したのだ。四個の樽のうち、下になった二個はほんのわずかだが傷がつき、樽板のあいだからワインがにじみ出ていた。あとの二樽は落ちかたもさしてはげしいものではなかったから、いずれもたいしたことはないようだった。仲仕たちは、みんな、うまく身をかわしたので、怪我(けが)をしたものはひとりもいなかった。
「おい、樽を立てろ」樽の損傷をすばやくあらためてから、監督が仲仕たちに声をかけた、「ワインがもれないようにするんだ」
 泌(にじ)みだしている二個の樽は、傷のついている方を上にむけて、応急手当をするために、かたわらにどけられた。三個目の樽は、どこにも傷が見あたらなかったが、四個目の樽をしらべてみると、ぜんぜん無傷というわけではなかった。
 この樽は、見た目にもほかの三個の樽とちがっているので、こいつはノートン・アンド・バンクス酒造の積荷ではないぞと、ブロートンはすぐ気がついた。この四番目の樽は、ほかのにくらべると、つくり(・・・)も頑丈で、仕上げも上等だった、それから淡褐色(たんかっしょく)に着色してあり、ワニスがぬってあった。おまけに、中身がワインでないことはあきらかだった、というのは、そもそもこの樽が無傷でないことを教えてくれたものが、樽板のはしの割れ目からこぼれ落ちたひと山の鋸屑(おがくず)だったからである。


……《第一部 一 異様な積荷》より

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