「ベイシティ・ブルース」

レイモンド・チャンドラー/小泉喜美子訳

ドットブック版 234KB/テキストファイル 158KB

500円

いまも脈々と生きつづけるアメリカン・ハードボイルドの真骨頂チャンドラーの中編3作。表題作「ベイシティ・ブルース」のほか、「赤い風」「密告(さ)した男」をおさめる。活躍するのはもちろん「いやしい街をゆかねばならぬ」フィリップ・マーロウである。小泉氏の斬新な訳で。

レイモンド・チャンドラー(1888〜1959)シカゴ生まれ。ハメット、ロス・マクドナルドと並ぶ、最も有名なハードボイルド作家の一人。イギリスで育ち、第一次世界大戦ではカナダ海外派遣軍、イギリス空軍に従軍、除隊後アメリカに戻る。33年にパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に「脅迫者は撃たない」が掲載されデビュー。39年発表の処女長編『大いなる眠り』で探偵フィリップ・マーロウを登場させ、一躍売れっ子となる。他の代表作は『さらば愛しき女よ』『湖中の女』『長いお別れ』。

立ち読みフロア
 その夜は砂漠の風が吹きまくっていた。山道を吹き下ろし、髪の毛を逆立て、神経をいらだたせ、肌をむずつかせるサンタ・アナ特有のあの熱い乾いた風だ。そんな晩には、どんな酒盛りも喧嘩で終る。おとなしい女房連中も肉切りナイフの刃を指先で試しながら夫の首根っこをじっとみつめる。どんなことだって起こらないとは限らない。カクテル・ラウンジでビールをグラスになみなみと呑ませてもらうことだってできるのだ。
 私は自分の住んでいるアパートの向かいの、できたてのしゃれた店でそいつを呑んでいるところだった。一週間ほど前に開店したばかりで、ろくに客もいなかった。カウンターの向こう側の青年は二十代そこそこで、生まれてこのかた酒など一杯も呑んだことがないように見えた。
 客はほかに一人だけ。戸口に背を向けたカウンターのスツールの上の呑んだくれだ。目の前に十セント硬貨を一山きちんと積みあげているのが二ドル分はありそうだった。小さなグラスでライのストレートを呑みつづけており、完全に自分一人だけの世界に浸りきっていた。
 私はカウンターのずっと離れたところに腰かけ、ビールを呑みながら言った。
「店が持てて有頂天なんだろう、え、おい。めでたいなと言ってるんだぜ」
「持ったばっかりなんですよ。これからがんばらなくちゃねえ。旦那は前にもいらしたでしょう?」
「さあてねえ」
「近くにお住まいで?」
「向かいの〈バーグランド・アパート〉。名前はフィリップ・マーロウ」
「恐縮です。あたしはルウ・ペトロールっていうんです」磨(みが)きあげた黒いカウンター越しに彼は身を乗り出した。「あっちの男をご存じですか?」
「いいや」
「もう帰らせたほうがいいんです。タクシーを呼んで送らせなくちゃ。彼、来週のぶんまで呑んじまいますよ」
「こんな晩だ、ほっといてやれよ」
「あの人のためにならないですよ」
 青年は私に顔をしかめて見せた。
「ライだ!」
 呑んだくれが顔も上げずにどなった。カウンターを叩いて硬貨の山を崩さないように、指をぱちんと鳴らした。
 青年は私を見て肩をすくめた。
「どうしましょう?」
「誰の胃袋だ? おれのじゃないぜ」
 青年はもう一杯、ライのストレートを注いでやったが、それを持って出てきたときはお祖母(ばあ)さんを蹴(け)とばしでもしたようなうしろめたい顔をしていたので、さてはカウンターのかげで水増ししたなと私はにらんだ。呑んだくれのほうは意にも介さなかった。脳腫瘍の手術をする外科医みたいな細心の注意を払って、硬貨二枚を山からつまみ上げた。
 青年は戻ってきて、私のグラスにビールを注ぎ足した。外では風が唸っていた。ときおり、ステンドグラスをはめた揺り戸がそのせいで数インチ開いた。重いドアなのに。
 青年が言った。
「あたしは第一に酔っぱらいってやつが嫌いで、第二にそいつらにこの店で酔っぱらわれるのが嫌いで、そして第三に、第一、酔っぱらいが嫌いなんです」
「ウォーナー・ブラザース映画が使いそうな台詞(せりふ)だな」
「もう使ってましたよ」
 ちょうどそのとき、もう一人の客があった。一台の車が外でタイヤを軋(きし)ませて停まり、揺り戸が開いた。一人の男がやや急いだ様子で入ってきた。手でドアを支えたまま、無表情な光る黒い眼で店内をさっと見渡した。いい身体つきで、細面(ほそおもて)に口元のきりりとした、色の浅黒い好男子だった。黒い服のポケットから白いハンカチが恥ずかしそうに覗き、何かの理由で心を張りつめているような冷ややかな態度だった。熱風のせいだろうと私は思った。私自身も似たような気分だったが、ただしこっちはちっとも冷たくはなかった。
 彼は呑んだくれの背中を見た。呑んだくれは空(から)にしたグラスを集めてチェッカーをやっていた。新しい客は私を見、次に反対側の壁ぞいの半円形のブースを眺めた。どれも空っぽだった。彼は入ってきて――呑んだくれがすわりこんだまま身体を揺すって何やらぶつぶつ言っている横を通り過ぎると――バーテンダーの青年に話しかけた。
「レディが来なかったか? 背が高くて美人で髪は茶色、青い絹クレープのドレスの上にプリント地のボレロを羽織っている。びろうどのバンドを巻いた、つばの広い麦藁の帽子をかぶっているんだが」
 私の好かない、緊張しきった口調だった。
「いいえ、そういう人は来ませんでしたよ」
「そうか。スコッチのストレート。早くしてくれ」
 バーテンダーが注ぐと男は金を支払い、一気に呑み干して出て行こうとした。三、四歩歩いたところで立ちどまり、例の呑んだくれと顔を突き合わせた。呑んだくれは薄笑いを浮かべていた。彼はどこからか拳銃を取り出したが、あまりすばやかったのでそれと見きわめがつかないほどだった。それをしっかりかまえたところは私同様の素面(しらふ)に見えた。背の高い、色の浅黒い男は凝然と立ちつくしていたが、次に頭をかすかにうしろへそらせ、そしてまたじっと動かなくなった。
 一台の車が外を走り過ぎた。呑んだくれの拳銃は二二口径の練習用オートマティックで大きな照星(しょうせい)〔銃口近くの銃身に固着させた小突起で、手前の照門からこれを見て照準を定める〕がついていた。それが二度、鋭い音をたて、かすかな硝煙が舞い上がった――非常にかすかな硝煙が。
「あばよ、ウォルド」
 呑んだくれは言い、拳銃をバーテンダーと私に向けた。
 浅黒い男は一週間がかりで倒れた。よろめき、こらえ、片手を振り、またよろめいた。帽子が落ち、次に彼自身がうつ伏せに床に倒れた。これだけの騒ぎを演じたのだから、このあとコンクリートを浴びせられても仕方のないところだった。
 呑んだくれはスツールからすべり下り、硬貨をポケットにさらい込み、戸口のほうへ足早やに歩き出した。拳銃を腰にかまえたまま、横を向いた。私は拳銃を持っていなかった。ビールを一杯呑みにくるのに必要とは思えなかったのだ。カウンターの向こうの青年は身動きもせず、物音一つたてなかった。
 呑んだくれは私たちに視線を据えたまま、肩でかるくドアをさぐり、背中で押し開けた。ドアが大きく開くと一陣の突風が吹きこんできて、床の上の男の髪を逆立てた。呑んだくれが言った。
「あわれなウォルド。鼻血が出たろうな」
 ドアが揺れて閉まった。私はそっちへ駈け出そうとした――へまをし馴れた永年の習性からだ。この場合は大丈夫だった。外に停めてあった車が唸りをあげ、私が歩道に出た頃には近くの曲がり角の辺を赤い尾灯がぼんやりちらついていた。その番号を読みとるのは百万ドル稼ぐのと同じくらいむずかしかった。

……「赤い風」冒頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***