「獣人」

エミール・ゾラ/古屋健三訳

ドットブック版 509KB/テキストファイル 326KB

800円

パリ=ル・アーブル間を走る「ラ・リゾン」の一等機関手ジャック・ランチエには、女の裸を見ると殺意に襲われるという病的なところがあった。彼はある日たまたま、助役ルボーとその妻セヴリーヌが走り去る列車のなかでおかす殺人現場を車外から目撃し、彼女に惹きつけられていく。「獣人」は鉄道界と司法界をバックに、呪われた遺伝的発作に苦しむ主人公と、けだもののように疾走する機関車の姿とを重ね合わせ、人間獣性の諸相をえぐり出す。機関車の機械美、緊迫した筋の展開、絡み合う作中要素と人々の相互関係などが圧倒的な迫力で迫る。ゾラの円熟期に書かれた傑作。

エミール・ゾラ(1840〜1902) フランスの作家。7歳のときイタリア人の父を亡くし、パリへ出て苦闘する。バルザック、フローベール、ゴンクールなどの刺激を受け、68年に書いた「テレーズ・ラカン」で注目される。71年には「第二帝政時代における一家族の自然的社会的歴史」と銘打った大作「ルーゴン・マッカール叢書」に着手し、93年に全20巻を完成した。これがゾラの代表作であり、「居酒屋」「ナナ」「ジェルミナール」「獣人」「大地」などはすべて、この中に含まれている。

立ち読みフロア
 室(へや)に入ると、ルボーは一斤(きん)のパンとパテと白ブドウ酒のびんとをテーブルのうえにおいた。 室は息苦しいほどの暑さだった。ヴィクトワールおばさんが、今朝、勤めに出がけに、ストーヴの火に粉炭をたっぷりかけていったらしい。駅助役のルボーは窓を開け、そこに肘をついた。
 それは、アムステルダム街の袋小路、右手のいちばん奥の家で、西部鉄道会社が従業員の住居にあてている高い建物だった。窓は、建物の角にあたる、六階のすみの屋根窓で、駅や、ヨーロッパ街にぽっかり穴をあけている、広い切通しや、そのはてにふいに開ける地平をみることができた。二月なかばの灰色の空は、午後の陽を浴びて、しめった、生あたたかい灰色のもやにおおわれていて、そのため地平はなおのこと広く感ぜられた。
 正面では、太陽が金粉をばらまいたような光線となってふりそそぎ、その下で、ローマ街の家々がふらりとかすみ、にじんでいた。左手には、ガラス屋根のプラットホームが、すすけたガラスの巨大な発着口をいくつもあんぐりと開いていた。幹線のプラットホームは、眼下に長くのび、通信所とボイラー室の建物をはさんで、それよりもっと短いプラットホームが並んでいた。それぞれアルジャントゥーユ行、ヴェルサイユ行、環状線のプラットホームである。他方、右手には、ヨーロッパ橋が、その鉄の放射路で切通しを切断していたが、切通しはその背後にふたたび姿を現わし、バチニヨル・トンネルまでのびていた。そして、ちょうど、この眺望のよくきく窓の真下で、三本の複線が橋から出て、分岐し、扇形にひろがり、その無数に増殖した鉄の枝は、プラットホームの下に消えていった。転轍手(てんてつしゅ)の小屋が三つ、プラットホームのアーチ型の発着口のてまえにあって、裸の、せまい庭をみせていた。車両や機関車が雑然と線路をふさぎ、大きな赤信号が薄ぐもりのなかでひときわ鮮かにはえていた。
 しばらくのあいだ、ルボーは、自分の勤務先のル・アーヴル駅とくらべてみたりして、この駅の光景に興味をそそられた。このようにパリに一日を過ごしにやってきて、ヴィクトワールおばさんのところに泊まるたびに、職業意識が目覚めた。マントからの列車が到着し、幹線のプラットホームがにぎわった。彼は、列車入れ替え用の小型機関車を眼で追った。三対の小さな車輪をつけ、小型の炭水車をひいた機関車だった。客車を車庫に通じる線路に引き入れたり、押しもどしたりして、列車の入れかえ作業をはじめていたが、いかにもせかせかした、せわしげな動きだった。いま一両、なんでも噛みくだいてしまいそうな、大きな車輪を二つつけた、急行列車用の強力な機関車が、一台ぽつんと離れて停車していて、煙突から黒い煙をもくもくとあげていた。煙は、風のない空に、ゆっくりと真直ぐあがっていった。やがて彼は三時二十五分発のカーン行きの列車に完全にひきつけられてしまった。列車は、すでに旅客であふれていて、機関車がつながれるのを待っていた。この機関車は、ヨーロッパ橋のむこう側にとまっていて、彼には見えなかった。ただ、まるでいらだった人のように、せわしなく軽い汽笛を鳴らして、転轍を求めている声がきこえてきた。指令があたえられると、こんどは短い汽笛で、了解の返事を送りかえし、それから、発車のまえに、一瞬静まりかえったかと思うと、とたんに排気弁を開き、蒸気を耳を聾するばかりの音をたてて、地面すれすれに噴出させた。やがて、その真白な蒸気は橋のうえまであふれてきて、純白の綿毛のように渦巻きながら、橋の鉄の骨組みにからみつき、もくもくとたちのぼっていった。空の一角は蒸気で白くなったが、また一方、黒いヴェールのほうも、他の機関車の煙も加わって、拡がってきた。そのかげにかくされて、汽笛の長い響きも、指令の声も、ターンテーブルのがたがた動く音も、くぐもって、よく聞えなかった。と、耳をつんざくような音が響き渡った。もやの奥に、ヴェルサイユ線の上り列車と、オトーユ線の下り列車とがすれ違うのがみえた。
 ルボーは窓から離れようとした。と、だれかが自分を呼ぶ声がしたので、窓から身を乗りだした。みると、下の五階のテラスに、車掌主任のアンリ・ドヴェルニュがたっていた。三十ぐらいの青年で、幹線の助役の父とふたりの妹と一緒に、そこに住んでいた。妹のクレールとソフィは、それぞれ十八と二十になるが、ふたりともブロンドの、かわいらしい娘たちで、たえず明るさをふりまきながら、父と兄と合わせて六千フランの収入で家計をきりもりしていた。姉の笑顔と妹の歌声とが聞え、それと競うようにして、籠いっぱいの南洋の小鳥たちがはなやかにさえずっていた。
「おや、ルボーさん、パリにおいででしたか……そうそう、郡長との例の一件ですね」
 助役はまた窓に肘をついて、今朝六時四十分の急行でル・アーヴルを発たなければならなかったしだいを説明した。管理部長の命令でパリに呼ばれ、きつく叱られてきたところだった。首にならなかったのがまだしもみつけものだった。

……「冒頭」より


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