「従妹ベット」(上下)

バルザック/佐藤朔訳

(上)ドットブック 223KB/テキストファイル 228KB

(下)ドットブック 227KB/テキストファイル 233KB

各巻600円

好色漢ユロ男爵、貞淑のかがみのその夫人アドリーヌ、強欲な商人あがりのクルヴェル、淫蕩多情で強欲なマルネフ夫人、そして醜女であるために誰からも愛されず、男爵夫人におさまった美人のアドリーヌを妬み、いつか没落させてやろうと密かに執念を燃やす従妹ベット。これら主要人物に多くの登場人物をからませて、パリを舞台に描きあげられた人間くさい物語。バルザックの「人間喜劇」の代表作のひとつ。

バルザック(1799〜1850)ユゴー、デュマとならぶ19世紀フランスを代表する作家。パリ大学に学ぶが中退して文学を志す。出版、印刷などを手がけて失敗したあと、負債返済のために頑張り「ふくろう党」で成功。以後、みずから「人間喜劇」と名づけた膨大な小説群を生み出した。代表作「ウジェニー・グランデ」「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」「従兄ポンス」「風流滑稽譚」など。20年間、毎日50杯のコーヒーを飲みつづけて創作に打ち込んだ逸話は、派手な女性遍歴と浪費癖とともに有名。

立ち読みフロア
 一八三八年、七月半ばごろのこと、最近パリの広場に姿をあらわしたミロールという新型の馬車がユニヴェルシテ通りを走っていた。中には国民軍〔治安維持にあたった一種の市民軍〕大尉の制服の、中背のふとった男が乗っていた。
 パリっ子は目が利きすぎると非難されるが、なかには平服よりも軍服のほうがはるかに洒落《しゃれ》ていると思いこんでいて、毛皮つきの軍帽や軍服は、婦人たちに、ひとかたならぬ好印象を与えると勝手に想像している手あいもいる。女というものは、それほど趣味がよくないと思っているのである。
 第二連隊所属のこの大尉の顔つきは、いかにも得意気で、そのせいか彼のやや下ぶくれのあから顔は、つやつやとした光沢をみせている。商売でたんまり金をもうけて、楽隠居の身分になったような男の額などに、この種の色つやがみられることが多い。さしずめこの男もパリの有力な資産家か何かで、少なくとも区の助役ぐらいはやった人物に相違ない。だから、プロシャ軍人式にそりかえっている胸に、レジォン・ドヌール勲章の略綬がついているのも当然ではある。新型馬車の隅《すみ》に、傲然《ごうぜん》とかまえて、勲章をもったこの男は道行く人の上にその視線を移していた。そこにいもしない明眸《めいぼう》の美女に向けたこういう愛想笑いを、パリの道行く人はよく受けるものだ。
 馬車は、ユニヴェルシテ通りがベルシャス通りとブルゴーニュ通りではさまれているあたりでとまった。それは、庭つきの古い邸宅の中庭の一部を利用して最近建築された、大きな家の門の前だった。古い邸宅には手をつけなかったらしく、広さが半分にへった中庭の奥に邸がもとのままで残っている。御者《ぎょしゃ》に手をかしてもらって馬車からおりた大尉の様子を見ただけで、彼が五十ぐらいの年配だということがわかる。身のこなしの明らさまな鈍重さが、出生証明書みたいに年齢を雄弁に語ることがあるものだ。
 大尉は、右手に黄色い手袋をはめると、門番には言葉もかけずに、邸の一階の階段へと歩みよった。「あの女はおれのものだ!」という様子がそこには見えていた。パリの門番たちは目が利く。勲章をさげ、国民軍の紺の制服を着、足どりのゆったりした男なぞ、まちがっても足どめさせたりはしない。彼らが見れば金持ちかどうかすぐわかるのである。
 邸の一階は、全部ユロ・デルヴィー男爵の住まいとなっている。男爵は共和政時代には支払命令の行政委員だった人で、元陸軍主計監、現在は陸軍省のもっとも重要な局長であり、参事院議員、レジォン・ドヌール二等勲章佩用《はいよう》者等々の肩書をもっている。
 このユロ男爵は出生地の地名をとってみずからデルヴィーと名乗っていたが、それは兄の有名なユロ将軍とまちがえられないためだった。兄というのはナポレオン皇帝の近衛連帯で擲弾《てきだん》隊大佐をつとめていた人で、一八〇九年の戦役では軍功を認められ、ナポレオンからあらたにフォルツハイム伯爵の位に任ぜられた人物であった。弟の面倒を引き受けた長兄の伯爵は、親身の配慮から、彼を軍政畑の地位につけたのだったが、兄弟二人して軍務にはげんだので男爵はナポレオンの寵遇《ちょうぐう》をえたし、またそれに値するだけの働きもした。一八〇七年には、ユロ男爵はスペイン方面軍の主計監に任ぜられた。
 呼び鈴を押したあとで、国民軍大尉は、つき出た腹の動きで前も後もふくれあがってしまった上衣を、もとにもどそうとして大いに骨を折った。お仕着せを着た召使いは、彼の姿を目にするとすぐになかへ招じ入れたので、この恰幅《かっぷく》のいい、そしてもったいぶった男は、召使いの後についていった。召使いは、客間のドアを開けると、「クルヴェルさまがおみえになりました」といった。
 名前の主にいかにもふさわしいこの名を耳にすると、年の割には若々しく、丈の高い金髪の女が、まるで電気の衝撃でも受けたかのようにはっとして立ちあがった。
「オルタンス、ベットさんとお庭へいっておいで」と、そばで刺繍《ししゅう》をしている娘に口早にいった。
 大尉にしとやかな会釈《えしゃく》をすると、オルタンス・ユロ嬢はやせた老嬢をともなって庭に出ていった。老嬢は男爵夫人よりも五歳年下だったが、夫人よりも老《ふ》けて見えた。
「あなたの縁談よ」と、ベットは、従妹の娘にあたるオルタンスの耳もとにささやいた。ベットの気持ちなどは委細頓着《とんちゃく》しないで、二人を遠ざけてしまった男爵夫人のやり口に、かくべつ気を悪くしているようにも思えなかった。もっともベットの身なりで、男爵夫人の不躾《ぶしつけ》な態度が説明できないこともない。
 この老嬢は、ぶどう色のメリノ地で作ったドレスを着ていたが、その裁ち方と言い、ふち飾りと言い、王政復古時代の代物《しろもの》であった。刺繍つきの飾り襟は三フランも出せば買えそうな安物で、おまけに市場の売子などがかぶっていそうな、青繻子《しゅす》の蝶結びのある麦藁帽子をかぶっている。どう見ても最下等の靴屋がこしらえたとしか思えない、山羊《やぎ》革の靴を目にすれば、知らない人はベットにあいさつするのを躊躇《ちゅうちょ》せざるをえないだろう。ましてやこの家の親類のものとしてはあつかうまい。日雇いのお針婆さんそっくりだったからである。とはいうものの、老嬢は出がけにクルヴェル氏に愛想よく会釈をしたし、クルヴェル氏のほうでもうなずいてそれに答えた。
「フィッシェルさん、あす来てくださるでしょうな」と彼がいった。
「お客さまが大勢でしょう?」と、ベットがたずねた。
「いや、子供たちとあなただけですよ」
「じゃあ、おじゃましますわ」
「奥さん、仰せにしたがってまいりました」と言いながら、国民軍大尉はあらためて男爵夫人に腰をかがめた。
 そういって彼は、ユロ夫人を見つめたが、その様子はポワチエやクータンスなどで興行するいなかまわりの旅役者が、タルチュフを演じて、思い入れよろしくエルミールを見つめるときの仕種《しぐさ》にそっくりだった。
「どうぞこちらにおいでくださいまし。客間よりもこちらのほうがお話ししやすいと思いますので」家の間どりからいうと、遊戯室になっている隣室を指さしてユロ夫人がいった。
 その部屋と、窓が庭に面している夫人の居間とは、わずかに薄い壁で仕切られているだけだった。ユロ夫人はしばらくクルヴェル氏をひとり残して出ていった。立ち聞きされないように、居間の窓とドアとをしめなくてはと思ったからである。用心深いことに、彼女は庭に通ずる客間の出口までしめてしまった。そして、出口をしめるとき、庭の奥の古びた亭《ちん》に腰をおろしている娘と従妹のベットとにほほえんでみせた。だれかが客間にはいって来たら、客間のドアの開く音が聞こえるようにと、遊戯室の入口のドアは開けたままにしておいた。
 こんなふうに行ったり来たりしながら、夫人は、だれからも見られていないので、自分の気持ちを顔にあらわに出していた。だれかが居あわせてその表情を見たとしたら、そこにあらわれている心の動揺に、ほとんど愕然《がくぜん》としたことだろう。けれども客間の入口から遊戯室までもどってくるあいだに、夫人の顔は、心の底も容易にはあかさない、あのつつましやかな表情をとりもどしていた。女というものは、あけすけな人でも、ときに応じて、こうした顔つきになれるものらしい。
 こうした下準備は、少なくとも奇妙ではあったが、そのあいだ国民軍士官は、彼がいる部屋の調度を仔細《しさい》にながめまわしていた。もとは赤かった絹のカーテンは、日焼けして紫色に色あせ、使い古されて襞《ひだ》がささくれだってしまっている。色の消えた絨毯《じゅうたん》、金色の塗装もはげた家具、まだらにしみがついているうえにほうぼうが破れている椅子の絹地、そういうものを見ていると、この成りあがり商人の平板な顔つきの上に、軽蔑と満足と希望の気持ちがかわるがわる正直にあらわれるのだった。帝政時代式の古い振子時計ごしに、彼は鏡に姿をうつしてわれとわが身を点検することを怠らなかったが、そのとき、衣ずれの音がして、男爵夫人がもどってきた。彼はすぐにふたたびとりすました。
 一八〇九年ごろには、さだめし美しかったと思われる小さなソファに腰をおろすと、男爵夫人は肘掛け椅子を指さして、クルヴェルに坐るようにとすすめた。肘掛け椅子の腕木のはしには、青銅色に塗ったスフィンクスの頭部が彫ってあったが、塗料がはげてところどころ木地をみせている。
「ずいぶんと用心なさっているご様子だが、これは幸さきのいいしるしと思うでしょうな。もし……」
「恋こがれる男ならば、でしょう」国民軍士官の言葉をさえぎって夫人がいった。
「ところが、恋こがれるどころではないので」そう言いながら、クルヴェルは右手を胸にあて、目をぐるぐるまわしてみせた。こういう目つきを女性が冷静な気持ちで見れば、たいがいの女性は吹き出すにきまっている。「恋こがれる、いやむしろ恋に狂うといっていただきたい」……(巻頭より)

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