アイルランド民話集

「魔法のかかったプディング」

W・B・イエーツ編/高畠文夫訳

ドットブック 366KB/テキストファイル 177KB

500円

エメラルドの島とも呼ばれる緑の美しい島国アイルランド。この国に住む人々は、20世紀後半の今日でも妖精と共存している。群をなして住む妖精たち、独り暮らしの妖精、いたずら好きな妖精、意地悪な妖精など、アイルランドの人たちは彼らを愛し敬意すら払う。アイルランド生まれの詩人イエーツが、古くから語りつがれた幻想的な民話をまとめたものから30篇を収録した。

イエーツ(1865〜1939)アイルランドのダブリン生まれの詩人・劇作家。アイルランドの文芸復興運動に尽力、「アイルランド国民劇場」をつくり、自作をはじめ多くの劇作家の作品を上演した。1923年にはノーベル文学賞を受賞した。

立ち読みフロア
 今から、ずっとずっと昔のこと、一人の美しいお姫様が、遥(はる)か向こうの湖のほとりのお城に住んでいなさった。なんでも人の噂(うわさ)では、そのお方は、王様の息子と婚約中の間柄で、ゆくゆくは結婚なさることになっとった。ところが、その王子様が、突然、殺されなさった(かわいそうに)。そして、その湖に投げ込まれなさった。そんなわけで、もちろん王子様は、その美しいお姫様との結婚の約束が果せなんだ――ほんとにお気の毒なことですて。
 さて、人の話によると、王子様を失のうたために、そのお姫様は、気がふれてしまいなさったそうな――それというのも、そのお姫様は、神様、どうかあの方をお守り下さいまし、ほかのわれわれのような者たちと同じように、やさしいお心をお持ちだったからなのでした!――それで、王子様を恋い焦れていなさったが、とうとうしまいには、いいことか悪いことかわからんが、誰(だれ)も、そのお姫様のお姿を見かけんようになってしもうた。人の噂では、妖精(ようせい)たちにさらわれなすったんじゃそうな。
 ところが、あなた、しばらくたつと、「白い鱒(ます)」がな、ああ、神様、この白い鱒をお守り下さいまし、その白い鱒が向こうの川に見かけられるようになったのですわい。何せ、白い鱒なんて、人は後にも先にも、ついぞ聞いたことがありませなんだによって、それをどう考えたらいいのか、誰ひとりわかるものはおりませなんだ。それから、何年も何年もその白い鱒はそこにおりました。有難い、この今という時にあなたが見かけなすった通りの場所にな。どれだけ長らくいたかは、わしにもわからんです――いや、全くの話、この村でいちばん長生きの年寄りも覚えとらんほど昔からじゃそうな。
 しまいに人びとは、あれはきっと妖精なんじゃと思うようになりましたのじゃ。なんでというても、ほかに何ぞ心当りでもありますかな?――そういうわけで、その白い鱒を痛めたり傷つけたりするものは、ついぞおりませなんだ。ところが、しまいに、心の悪い罰あたりな兵隊どもが、何人かでここいらへやって来よって、ここいらのものみんなを笑いものにしよったのですわい。そして、何ともくだらんことを考えとるわいちゅうて、ひやかしたり、せせら笑ったりしたのですて。そして、とりわけ、その中の一人は(あんな奴(やつ)、くたばっちまいやがれ、こんなだいそれたことを言うて、神様、どうかごめんなさいまし!)、俺(おれ)は、その鱒とやらをひっ掴(つか)まえて、晩飯に食ってみせてやる、とうそぶいたのですわい――悪党奴(め)!
 さて、その兵隊の乱暴極まる行ないをどう思われますかな? そいつは、うそぶいた通り、その白い鱒をとっ掴まえて、家に持って帰り、フライ・パンを火に掛けて、その中へ、小っちゃい綺麗(きれい)なその鱒をほうり込んだのです。するとその鱒は、まるで人間のキリスト教徒そっくりに、かん高い悲鳴をあげたんですわい。それを、あなた、その兵隊奴は、にやにや笑いながら、その脇腹(わきばら)を切り裂いたんですぞ、いいですかな――なにしろ、血も涙もない残酷な奴でしてな。それで奴(やっこ)さん、片方が焼けたと思うて、もう片方を焼こうとしてひっくり返したのですて。そうしたところが、どうなっとったとお思いですかな、それこそ、これっぽっちも焼けとらなんだのです。それで、てっきりその兵隊奴は、思ったのですな、こいつあ、焼くこともできん変てこりんな鱒じゃわい、と。「でも」と彼は言うた。「そのうちに、もう一ペんひっくり返してみてやるとするか」とな。奴さん、どんなたいへんなことになるかもほとんど考えないでな、極道者奴。
 というわけで、片方が焼けたと思うて、やつ奴は、またひっくり返しよった。そうしたところが、いいですかな、反対側も、ちっとも焼けとらなんだのですわい。「こいつあ、縁起が悪いや」と、その兵隊は言いよった。「でも、もう一ペん、おめえを焙(あぶ)ってやるぜ、なあおい、可愛いの」と言うたんですわい。「てめえじゃ、うめえことやってるつもりなんじゃろうがな」と。そう言い言い、奴は鱒をひっくり返したのですじゃ。そんでも、その綺麗な鱒には、焼け跡ひとつつかなんだそうな。「ようし、そんなら」と、そのヤケのヤン八(ぱち)になった悪党奴は言いおった――(それというのは、あなた、ただ、こいつは、全くもって救いようのない悪党だった、というだけのことですがな。いくら努力してみても、それが全部うまくいかなんだら、俺はよからぬことをしとるんじゃ、とわかりそうなもんですからな)――「ようし、そんなら」と、奴さんは力んだ。「おう、元気なチビッ子鱒よ、おめえは、たぶん、もう充分に焼けとるだろうな、もっとも、見た目にゃ、充分焼き上がっていねえみてえだがよ。だけど、おめえ、結局のところ、こげたネコか何かみてえに、案外、見かけより焼き上がっているのかもしれんな」と、彼は言うた。そして、そう言い言い、その鱒をひとくち食ってみようと、ナイフとフォークを手に持って立ち上がったのですて。そうしたところが、どうしたことか、奴さんがその鱒にナイフを突き立てた瞬間、魂消(たまげ)る悲鳴が起こったんですわい。もしあなたがお聞きになられたら、それこそ、こりゃたまらん、命を取られる、とお思いになるようなひどいもんだったそうな。そしてその鱒は、フライ・パンから床の真ん中へぴょんととび出し、鱒が落ちたその場所に、一人の綺麗(きれい)な貴婦人が、すっくと立ち上がらっしゃった――白い着物を着て、頭に黄金(きん)の輪を巻いた、それこそ、今まで見たこともないほど綺麗な女で、その片方の腕から、血が一すじ流れ落ちとったんですて。

……「白い鱒」
冒頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***