「ザ・ビッグ4」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

ドットブック版 182KB/テキストファイル 147KB

500円

南米アルゼンチンの自分の農場から久しぶりにロンドンへ戻ってきたヘイスティングスは、なにはともあれ、まず旧友ポワロを訪問した。ところがなんと、ポワロはアメリカの石鹸王の依頼を受けて、ブラジルのリオへと旅立つところだった! そのときである。一人の憔悴した男がポワロの住まいにたどり着いた。男は失語症にでもなったように「ファラウェイ街十四番地、エルキュール・ポワロ氏」としか言わない。だが医師のすすめで紙と鉛筆を渡すと、男は「4」という数字を12回も書きなぐった……国際犯罪組織を相手のアクションとサスペンス、ポワロの魅力全開の痛快編。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア

 私は、英仏海峡の船旅を楽しんでいる人々を見た。その人々は、甲板椅子に悠然と腰かけていて、港に着いても船がつながれてしまうまで待って、それから少しもあわてず騒がずに、自分の手荷物をまとめて下船するのである。だが私には、とてもそんなまねはできない。私は乗船した瞬間から、落ちついて何かするには、時間がないような気持ちになるのである。私は旅行鞄を、あっちへやったり、こっちへやったりするし、食事をしに食堂へおりていっても、自分が下にいるうちに、知らぬ間に船が着きはしないかという不安で食物を呑み込んでしまうのである。恐らく、こうした気持ちは、すべて戦時中の短い賜暇《しか》のときの遺物であろう。戦時中は、船の舷門の近くに陣取って、三日ないし五日の賜暇の貴重な時間を一分たりとも無駄にしないように、第一番に下船する仲間に加わるのは、重要なことのように思われたものであった。
 この特別の朝、私が手すりのわきにたたずんで、ドーバーの白い崖が近づいてくるのを見守っているとき、平然と椅子に腰をおろしていて、自分たちの祖国の一端が眼前に迫っているのに、眼もあげようとしない旅客たちに、私は驚歎した。しかし彼らは、きっと私とは立ち場を異にしているのであろう。恐らく彼らの大多数は、巴里へ週末旅行に行って帰って来たに過ぎないだろうが、私はアルゼンチンで一年半も過ごして来たのであった。私はかの地で成功し、妻と二人で南米大陸の自由で気楽な生活を楽しんできたのである。それにもかかわらず、あのなつかしい海岸が次第に近づくのを見守っていると、胸が迫ってくるのであった。
 私は二日前にフランスに上陸し、そこで幾つかの用件を済ませて、今ロンドンに向う途中である。ロンドンでは数カ月滞在の予定で、旧友たちと再会するだけの暇は十分にあったが、特別に私の会う男が一人いた。それは小柄で、卵型の頭をして、緑色の眼を持った我が友、エルキュール・ポワロであった。
 私は彼を完全に驚かしてやろうとたくらんでいた。アルゼンチンから出した手紙には、予定していたこの航海については一言も書かなかった。もっともこの旅行は、ある面倒な仕事のために、急に決まったものではあった。とにかく私は、彼が私を見たときの喜びようと驚きようを胸に描いて、多くの楽しい時を過ごしたのである。
 私はポワロが自分の本拠から遠く離れているとは思わなかった。彼の受け持つ事件が彼を英国の端から端へと引き廻したのは過去のことである。現在では彼の名声は拡まり、もはや一つの事件に自分の時間を全部注ぎ込むようなことはしないであろう。彼は時が経つにつれて、次第に、ハーレイ街に納まる診察専門医のように、『顧問探偵』とみなされるのを目ざしていたのであった。彼は常に、犯人の追跡に素晴らしい変装をするとか、犯人の足跡を一々測って歩いたりする、いわゆる人間猟犬的な考えを冷笑していた。
 彼は、こういうであろう。
「いや、ヘイスティングス君、そういうことはジロオ探偵とその友人たちに任せておきましょう。エルキュール・ポワロの方法は、独得ですよ、順序と方法、そして『小さな灰色の脳細胞』。私どもは自分の椅子に楽々と腰かけていて、ジロオ探偵の一味が見落したことを見つけ、それからまた、りっぱなジャップ警部のように、結論に跳びつくようなことはいたしません」
 いや、ポワロが留守中だなどという心配は決してない。
 ロンドンに着くと、私は荷物をホテルへ預けておいて、ポワロの以前からの住所へ、真直ぐ自動車をとばした。何と鮮かな思い出がよみがえったことであろう! 私は宿の主婦との挨拶もそこそこに、二階へかけあがっていって、ポワロの部屋の戸を叩いた。
「おはいり下さい」と、中から、親しみ深い声が聞こえてきた。私は中へ入った。
 ポワロは戸口へ顔を向けて立っていた。その手に小さな旅行用の手提げ鞄を持っていたが、私を見るとそれを、がちゃんと落した。
「わが友、ヘイスティングス君! ああ、ヘイスティングス君!」と叫んで駈け寄り、彼は両手を一杯にひろげて私を抱いた。
 われわれの会話は筋道の立たない、取り止めのないものであった。絶叫、熱心な質問、不完全な答え、妻からの伝言、私の旅行の説明などが、まぜこぜにされていた。
 ようやくわれわれがどうやら落ち着いたところで私は、
「僕が前にいた部屋には誰か入っているんでしょう? 僕はまた、あなたと一緒に暮らしたいんですがね」といった。
 ポワロの顔色が驚くべき急速さで変化した。
「やれ、やれ、何たる酷《ひど》いめぐり合わせでしょう! 君、あたりを見てごらんなさい」
 私は始めて、自分の周囲に気がついた。
 壁ぎわに、恐ろしく古風な箱型の大トランクが寄せてあって、その近くに沢山の旅行鞄が、大きいのから小さいのと順序よくきちんとならべてあった。推論の結果は明白なものであった。
「どこかへお出かけになるんですか」
「さようです」
「どこへ?」
「南米へ」
「何ですって?」
「さよう、滑稽な茶番劇ではございませんか? 私の参るのはリオです、それで私は毎日、自分にこう申していたのです……この事は何も手紙に書かないでおきましょう、おお、ヘイスティングス君が私を見て、どんなにびっくりするでしょう! と」

……冒頭より

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