「慕情(上・下)」

ハン・スーイン/深町眞理子訳

(上)エキスパンドブック 339KB/テキストファイル 193KB
(下)エキスパンドブック 335KB/テキストファイル 189KB

各400円

ウィリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョーンズ主演でかつて大ヒットした映画「慕情」の原作。主題歌 Love Is a Many Splendored Thing は今でも耳にする。しかし、原作はきれいな悲恋物とはずいぶん違い、中国系混血児女性の「分裂した自己」の確認の物語でもある。舞台は第二次世界大戦も終了したあとの、共産化の嵐に呑み込まれようとする寸前の中国と香港。さまざまな思惑と期待と疑念と絶望を抱えて右往左往する数多くの登場人物、牢固とした生活信条に生きる中国本国の人たち……これはまぎれもない一時代の証言でもある。
立ち読みフロア
〔一九四九年三月〕
 パリッシュ夫人は、新しい絹のドレスを落ち着かせるために腰のまわりを叩き、白い小さな歯の裏で満足げに舌を鳴らす。
「たしかにだいぶほっそりしてきたわよ、間違いないわ」と、スレイル夫人。すこし離れたところでかぎ針を動かしながら、「あなたのおかげよ、先生」と言って、ちらりとわたしに笑《え》みを向ける。
「じっさいあなたの出現は、わたしのお祈りが聞きとどけられた証拠だわ」ヘレン・パリッシュも言って、後ろ姿を見るために等身大の姿見の前で身体《からだ》をねじる。三週間の食餌療法で、かくもめざましい結果が得られたのである。彼女の夫のアルフは、近く漢口《ハンカオ》の伝道本部から引き揚げてくることになっている。今日にも香港に着くかもしれない。共産軍は、北から東から迫ってきている。どの都市もまったく無抵抗に陥落し、守備軍は司令官ごとそっくり降服する。漢口もまもなく落ちるだろう。共産軍が夫の教えている学校を占領してしまったら、アルフは漢口にはとどまっていられまいとヘレン・パリッシュは考えている。彼女と子供たちは、四か月前に香港に来た。それ以来、ここの潤沢な食料とアイスクリーム、加えて運動不足が原因して、彼女は二十ポンドも贅肉《ぜいにく》がついてしまった。この二月に、イギリスでの医学の勉強を終えたわたしが、はりきってこのキリスト教会館に到着したとき、彼女はひそかにそのことで絶望的になりかけていた。それからの数週間、わたしは禁止品目を書いたリストを彼女の鼻先にふりかざし、きびしく食事の内容を監視してきたのだ。
「あなたがしばらくこの会館に逗留《とうりゅう》なさると聞いて、ほっとしたわ」と、彼女は言う。「身近にお医者さんがいるって心強いものね。とくに、子供をかかえている場合には」
 メアリ・フェアフィールドは編み物をしている。編み目を数えて、色のないくちびるがもぐもぐ動く。この朝、長い熱心な祈祷《きとう》のあと、彼女は子供を連れて中国に帰れという神様のお告げを受けたのだ。
「どうせ共産軍に〈解放〉されるだけよ」と、ヘレン・パリッシュは言う。「それに、それがあなたやお子さんたちにとっていいことだとは思えないわ」
 けれども、メアリ・フェアフィールドにとっては、他の多くの伝道活動家にとってと同様、中国こそが彼女の畑なのであり、福音《ふくいん》を広めるべく選ばれた土地なのだ。この暗黒と危険の時代にあっては、いままで以上に救済の必要が説かれねばならない。「うちでは両親とも中国で伝道していたのよ。わたしもあそこで生まれ、あそこで幼年時代を過ごしたわ。わたしの子供たちもやはり中国で生まれた。なぜか中国なしの生活は考えられないのよ、わたしには」
 スレイル夫人は、編み物はしないが、やはり悲しんでいる。ただしべつの理由からだ。彼女は長期にわたる伝道者ではない。スレイル夫妻は先ごろアメリカから赴任し、一軒の家を与えられた。そのうちその町に危険が迫り、彼らは香港に脱出したのだ。「あの寝室のカーテンをあなたがたに見せたかったわ。黄色い更紗《サラサ》で、谷間の百合《ゆり》の模様がついているの。あの家のことや、やむなく処分しなきゃならなかった家具のことを考えると、胸が痛むわ。きっと、いつかまたあたしたちをあの家に帰らせようというのが、神様の思し召しなのね」
 ジョーンズ夫人はイギリス人である。彼女もまた、ヘレン・パリッシュの寝室に集まって、手芸をし、おしゃべりをする仲間に属している。けれども彼女は、みなの前ではめったに口をきかない。この会館に来たての初めの一週間、わたしは彼女と同室だったが、夜になって鉄製のベッドに枕を並べてから、よくひそひそ声でおしゃべりをしたものだ。これはわたしが地下室に移る前のことである。「うちじゃ、ヘンリもわたしも中国を離れることには不賛成なの。彼は残りたがっているわ」
 もしここを離れれば、彼は伝道活動をやめて、イギリスで職を捜さねばならない。彼は長いこと故国を離れていたから、職を捜すにはどうしたらいいかすら知らないだろう。だからジョーンズ夫人はおびえている。彼女にはヒロイックなところなどすこしもない。「ヘンリが医療奉仕員だったら、共産軍も彼に仕事をつづけさせてくれるんでしょうけど。ところが彼は福音伝道者ですものね。宗教上のパンフレットを刷ったり配ったりするわ。まっ先にそれをやめさせるはずよ、彼らは」
 怒涛《どとう》のような共産軍の進撃からのがれようとする最初の衝動で、多くの宣教師一家が香港に渡ってきた。ところがいったんここに落ち着くと、恐怖は静まって、彼らはもとの土地を恋しがるようになる。アメリカやイギリスに帰国するものはほとんどない。多くは、家庭のなかにすでに中国の伝統を持つ二世宣教師である。神の福音は、この中国という異教徒の地で彼らの両親によって説かれた。とすれば、いまその実り多き大地を、ふたたび異教徒の手に返してしまってよいものだろうか。これだけ長期にわたる苦難の歳月を経ながら、けっきょく彼らは中国人の魂にキリスト教精神を植えつけることに失敗したのだろうか。「わたしは中国を愛する。わたしはいつだって中国を愛してきた。中国よ、わが中国よ」そう彼らは言う。「わたしにはどうしても理解できない。あれだけ多くの人々が共産主義に改宗するということが。わたしたちのもっとも信頼していた信者までが。じっさい、この人々のことなら、自分の手のひらのようによく知っていると思っていたのに。わたしにはわからない。彼らはいったいどうなってしまったのだ」

……「一 中国よりの脱出」より


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