「ボヴァリー夫人」

フローベール/白井浩司訳

ドットブック 357KB/テキストファイル 318KB

600円

ノルマンディーの小さな田舎町の医者シャルル・ボヴァリーと結婚したエンマは単調な暮らしにあきあきし、しだいに夫をうとんじるようになり、法律事務所の書記レオンに恋心を抱くようになる。レオンが勉強のためにパリに去ると、エンマは生来の虚飾のとりことなって地主ロドルフと不倫な関係を結ぶ。それが破局をむかえたとき、エンマはレオンと再会し、ルーアンに住むレオンのもとへと足繁く通うようになる……リアリズムの頂点を築いたフローベールの代表傑作。

フローベール(1821〜80)ルーアン生まれのフランスの作家。パリに出て法律を学んだが、断念して故郷の近くの父親の別荘にこもって文筆を志す。実地調査にもとづくリアリズム手法を開拓し、56年に「ボヴァリー夫人」を著し、一躍文名をはせた。代表作は他に「感情教育」「三つの物語」など。弟子モーパッサンの「脂肪の塊」での成功をみて死んだ。

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 道ばたの細長い歯朶(しだ)がエンマの鐙(あぶみ)にからまった。ロドルフは進みながらも身をかがめて、そのつど抜き取った。あるときは、枝を払うために、彼はエンマのすぐそばを通った。そのとき、彼女はロドルフの膝が彼女の足にさわったと思った。空は晴れてきた。木の葉も動かなかった。ヒースの花が咲き乱れた広い土地がいくつもあった。織物を敷きつめたような紫色の草原と叢林とがかわるがわる現われた。その叢林は葉の種類の違いによって、灰色、代赭(たいしゃ)色、金色をしていた。ときどき、茂みのかげに、わずかな鳥の羽ばたきや柏の林に飛び回っているからすのしゃがれた甘い鳴き声が聞こえた。
 二人は馬をおりた。ロドルフは馬を結びつけた。エンマは前に立って、苔(こけ)の上をわだちの間を歩いた。
 しかし、彼女の服は、裾(すそ)をからげても長すぎて歩きづらかった。ロドルフは彼女の後ろを歩いていたが、黒い上衣と黒長靴の間に見える白ズボンの美しさを凝視(ぎょうし)していた。それは彼にはなんだか彼女の裸体と思われたのである。
 エンマは立ち止まった。
「疲れましたわ」と彼女はいった。
「さあ、もう少し!」彼は答えた。「元気を出して!」
 しかし、百歩ほど行ったところで、彼女はまた立ち止まった。彼女のかぶっている男帽子から腰に斜めに揺らしているヴェール越しに見ると、彼女の顔は、青い波間を泳いでいるようにすきとおった青い色の中から浮き上がって見えた。
「どちらへ行くんですの?」
 ロドルフは答えなかった。エンマは息を切らしていた。ロドルフは彼女をねめ回し、口ひげをかんだ。
 二人はひろびろとした所に出た。そこには苗木が切り倒してあった。二人はころがしてある木の幹に腰をおろした。そして彼は自分の恋心を告白しだした。
 彼はまず大仰(ぎょう)な賛辞をささげてエンマをおじけさせるようなことはしなかった。彼は穏やかで、まじめで憂欝(ゆううつ)そうだった。
 エンマはうつむいて、爪先(つまさき)で地面に落ちている木くずをもて遊びながら聞いていた。
 しかし、
「ぼくたちの運命は今や一つになったのではありませんか?」という言葉に、
「いいえ! よくおわかりでしょ。それはかなえられないことですわ」と答えた。
 彼女は立ち上がって歩き出した。ロドルフは彼女の手首をつかんだ。彼女は立ち止まった。恋にうるんだ目つきをしてロドルフをしばらく見つめていたが、きっぱりいいきった。
「ああ、おやめになって、おっしゃらないでくださいまし。馬はどこにいるんですの? 帰りましょうよ」
 ロドルフはおこったような、じれたような身振りをした。彼女はまたいった。
「馬はどこにいますの? どこですの?」
 すると、彼は不思議な笑いを浮かべ、目をすえ、歯をくいしばり、腕を広げて進んできた。彼女はもぐもぐと、
「ああ、こわいことなさらないで! いやですわ! 帰りましょうね」
「しかたありません」と彼は顔色を変えて答えた。
 やがて彼はもとのうやうやしく、やさしい、内気な男にかえった。エンマは彼に腕をとられた。二人は帰って行った。ロドルフは、
「いったいどうなさったのですか? なぜなのですか? ぼくにはわけがわからないのです。きっと思い違いをなさったのでしょうね。あなたはぼくの心の中では台座のマリア様のような存在で、高く、じょうぶな、清らかな場所にいらっしゃるのです。しかし、ぼくはあなたがいなければ生きていられないのです! あなたの目が、お声が、お心が必要なのです、ぼくの恋人、ぼくの妹、ぼくの天使になってください!」
 そういって、彼は腕を回して、エンマの腰を抱いた。エンマはそっとよけようとした。こうして彼は彼女を抱いたまま歩いて行った。
 しかし、二人には二頭の馬が草をはむ音が聞こえてきた。
「ああ、もう少し」とロドルフがいった。「帰らないで、ここにいましょう!」
 彼は彼女を引っぱって、もう少し奥の小さな沼のほとりに連れて行った。沼は青浮草のため水面が緑色をしていた。葦(あし)の間には枯れた睡蓮(すいれん)がじっと浮いていた。草を踏む二人の足音に、蛙(かえる)は沼へ飛び込んで身を隠した。
「いけない、いけないことだわ、あなたのおっしゃることを聞くなんて、わたしどうかしているのですわ」とエンマがいった。
「どうして?……エンマさん… エンマさん!」
「ああ、ロドルフ」と若い女は男の肩に身を寄せて、そっとささやいた。
 彼女の服のラシャの布地が男の服のビロードにからまった。彼女はのけぞって白い首筋を見せた。それはため息にふくれていた。彼女は泣きながらわななき、失神し、顔を隠して身をまかせた。
 夕闇が降りてきた。木の枝を通してくる夕日がまぶしかった。そこここに、彼女のまわりにも、葉にも地面の上にも、飛びまわる蜂雀(はちすずめ)が羽根を散らすように、夕日の影がふるえていた。どこもかしこも静かだった。なにか甘美なものが樹木からあふれ出るのかと思えるほどだった。彼女は心臓が再び打つのを感じ、血が牛乳が流れるようにからだをかけめぐるのを感じた。そのとき、彼女は遠くの、森のかなたの別の丘の上に、はっきりしないが長く尾を引く叫び、息もたえだえの声が聞こえた。彼女は、その音楽のような、まだ波立っている彼女の神経の余波と溶け込んでいるその音に静かに聞き入っていた。ロドルフはくわえタバコをして、切れた手綱(たづな)をナイフを使ってなおしていた。

……第二部第九章より

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