「青銅ランプの呪い」

ディクスン・カー/長谷川修二訳

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600円

若い女性探検家がエジプトの「王家の谷」の墳墓で見つけた青銅のランプ。胴の部分に「死者の書」の一場面が彫りこまれたこのランプには、持ち主が消えるという不思議な「呪い」がとりざたされていた。そして彼女は……エラリー・クイーンとの対談のなかで「ミステリーの発端は人間消失の謎にまさるものはない」との結論に達したカーによって書かれた不可能の謎をめぐる大作。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「火刑法廷」「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

立ち読みフロア
 カイロの『コンティネンタル・サヴォイ・ホテル』のスイートルームの客間で、若い女と若い男が電話のなるのを待っていた。
 それはこの物語の発端ではなかった。が、この恐怖の発端であった。
 カイロは近頃ではすっかり変ってしまった、という人が多い。しかし、こういう事柄の起った頃――十年前のよく晴れた暖かい四月の午後――には、人生は昔ながらの愉快な平穏さを伴って、なだらかだった。
 エジプト特有の強い青い空を背景に、白い石で作ったこのホテルは、強い明暗度を見せて立っていた。鎧戸、窓ぎわについた小さい鉄製のバルコニーなどはなんとなくフランス式な感じをあたえ、日除けの色がよく映った。シャリ・カミルからオペラ劇場までを電車がやかましい音をたてて走り、旅行者の群がすぐ真下のアメリカ通運の事務所に殺到していた。紫檀《したん》や小さな椰子《やし》に取りまかれたホテルの入口に寄って来る自動車の流れは強い光線を反射した。しかし、昔ながらのカイロの雑音――と臭《にお》い――は、この回教寺院の尖塔の多い市街から空に立ち登っていた。
 こういう雑音は『コンティネンタル・サヴォイ』の二階のスイートルームではかすかにしかきこえなかった。鎧戸が降りていて、客間には光線は薄い平らな隙間を通してだけしかはいって来なかった。
 そして、青年はこういった。
「後生だから、ヘレン、坐って下さいよ!」
 女は歩きまわるのをやめて、ためらうような目つきで電話を眺めた。
「あなたのお父さんは」青年は穏やかにつけ加えた。「なにかニューズがあればすぐ電話をなさいますよ。それに心配することなんか、始めからないんだし」
「そうかしら」女はいった。
「蠍《さそり》に刺されたくらい!」相手はいった。彼の調子は必ずしも侮蔑的ではなかったが、蠍に刺されたのを別に重傷と思っていないのは明瞭だった――それに、医学的にいって、彼の言葉は、もっとも千万なのであった。「つまりね、ヘレン!」
 女は鎧戸の一つを半分あけて、も少し光線が部屋にはいって来るようにして、横顔を見せて外を見ながら立った。
 彼女を美人ということはできない。しかし彼女は多くの若者を――今彼女を考えこみながら眺めているサンディ・ロバートスンも含めて――たった二杯のウィスキーだけで足をとられてしまわせ、気違いじみたことをいわせる例の資質をもっていた。
 性的魅力、という奴? 彼女はそれを持っていた。たしかに。だが、二十代も後期にはいった健康で綺麗な娘は大抵はそれを持っている。知能? 想像力? その長閑《のどか》な朗らかな天性の下に、一朝なにかあれば、危険もかえりみずに荒れるかもしれない隠れた強さが暗示されているから? あるいは、その辺のところが大いに当っているのかもしれない。
 彼女は金髪だった。柔らかい黄色に輝く髪はかすかに日に焼けた皮膚といい対照になっていたし、また日焼けのせいで濃いとび色の目の白目《しろめ》の部分がきわだって輝いてみえた。口の幅の広いのは、すぐ目立ったし、どっちかというと、いささか不安定に見える。動きも不安定だ。微笑の始まりのようにみえたとたんに、疑わしくなる。
 想像力が強すぎる! 性質が強すぎる!
 だが、それは生れつきで、サンディ・ロバートスンなどもそれを変えたいなどとは思っていない。発掘作業だって、シャヴェルを使わせても、雇ったアラビア人にひけは取らない。教儀式目についてだって、カノーポス産の花瓶についてだって、彼女はギルレー教授と同じくらいの学識をふりまわせる。そのくせ、小柄なしなやかな身体は、ブラウズに革ゲートルという格好でも、女らしさを少しも失わない。
 一九三四〜五年の頃、ナイル河の西岸にあるビーバーン・エル・ムルーク、つまり王者の墓地、と呼ばれる谷〔いわゆる「王家の谷」〕に世界の注意が向けられたのを読者は思いだすことと思う。英国の考古学者の小人数の一行が、ギルレー教授とセヴァン伯爵を首班として、砂の中に埋っていた一基の墓を発掘したのであった。
 十月に始めて、五月の炎熱で中止したので、一行は二季の間作業をした。そして、花崗岩の閉塞物を貫いて、入口の間にはいり、側の間にはいり、それから墓所にはいった。エジプト政府をすら驚かした財宝の中に埋まるようにして、黄色っぽい結晶性の砂岩でできた大石棺のあるのを彼らは発見した。さんざん苦労したあげくに、一行は、アモン神に仕えた高僧で第二十王朝末期〔紀元前一千年頃〕に王者として全エジプトを治めたヘリホルの木乃伊《ミイラ》を明るみに持ち出したのであった。
 この報道は全世界の新聞を通じて、どえらい評判になった。
 旅行者の群が野営地に流れこんだ。新聞の通信員が日夜出没した。写真が方々に出た。ギルレー教授の写真、セヴァン伯の写真、解剖学者のバッジ博士の写真、サンディ・ロバートスンの写真、それから、なかんずく、セヴァン伯の娘であるヘレン・ローリン嬢の写真が出た。ヘレン嬢が参加しているという点がこの探検にまことに都合のいいロマンティックな興味を持たせたのである。そこへ持って来て、聴き手にはお誂えむきのスリルが現われた。まさに止《とど》めを刺したわけである。
 ケンブリッジのギルレー教授は名にしおうこの墓にはいった最初の人物であった。そのギルレー教授が、こともあろうに、二年目の終りに近い頃、手を蠍《さそり》に刺されたのだ……
 迷信の囁きの発端になるには持ってこいの事件であった。おまけに新聞ダネにはおあつらえむきだった。
『コンティネンタル・サヴォイ』の、暑い客間の窓ぎわに立って、ヘレン・ローリンはぐいと身体のむきをかえた。彼女は白い袖なしのテニス服を着ていて、真紅と白の絹のスカーフを首にまきつけていた。そして太陽の光線が照らして、彼女の頭のうしろに黄金色《こがねいろ》の後光がさした。
「サンディ。あんた……新聞を見て?」
「あれは」ロバートスン氏は断乎たる口調でいい放った。「あれは君、くだらない妄信ですよ」
「もちろん、くだらないわ! ただ……」
「ただ、なんです?」
「私は明日の切符の予約を取り消した方がいいのじゃないか、と考えていたの」
「なぜ取り消さなければならないのです?」
「私が英国に帰ってしまっていいとお思いになるの、サンディ? ギルレー教授が療養所にはいっているのに?」
「ここにあなたがいれば、何か役に立つんですか?」
「いいえ。なにもできないでしょうよ。でも、やっぱり……」
 サンディ・ロバートスンは顔を椅子の背にむけてまたがっていたが、薄暗いところから彼女を仔細《しさい》に眺めた。彼は両手を組んで椅子の背の天辺におき、尖った顎をその上にのせていた。
 小柄な、痩せた、筋ばった男で――ヘレンとくらべても幾らも背が違わない――年は三十五なのだが、老《ふ》けてみえる。その代り五十になるまでそのままでいそうなようすだった。髪は――この髪の色からサンディ〔砂のような薄茶色という意〕という綽名《あだな》が出来たのだが――濃くてその上に微かに皺《しわ》のある額と、黒い利口そうな、よく動く目がある。彼の額には例のユーモアにみちた醜さがあって、口の端に皺が一本でるのだったが、こういうのによく女は魅力を感じるものなのだ。
「あなたのお父さんはあなたを帰して家の仕度をしておいてもらいたいのですよ。僕たちも追っつけ帰りますよ」……彼は少し躊躇した……「このエジプト政府との揉めごとを片づけたらすぐに。もう一度いいますがね、ここにいてあなたは何か役に立つんですか?」
 ヘレンは窓際にあった椅子にかけた。彼女を眺めるたびに、サンディ・ロバートスンの顔の表情は――彼は薄暗いから相手の目からは全然隠されているのを知っていた――まるで肉体的な痛みのような、醜い興奮の色を見せるのであった。しかし彼の態度のほうはごく上手によそおったさりげない風になって行く。
「それから、英国にお帰りにならないうちに……」
「なァに、サンディ?」
「この間の晩、僕があなたに話したことを少しは考えて下さいましたか?」
 ヘレンは目をそむけた。そのときした小さな身振りから見ると、彼女はその話題を避けたいのだが、どういう風にしていいかわからないらしかった。
「僕の財産は」サンディは食いさがった。「ほとんど一文もないのです。もしあなたが光栄にも僕の妻になって下さったら、無論あなたは、僕を養わなければならなくなる」
「そんな風におっしゃらないで!」
「いけませんか? 本当なんですよ」
 ちょっとたってから、彼は前と同じ静かな口調でつづけた。
「当り前なら、僕は持ち前の社交的な強みを推進してもいいんです。僕のゴルフやブリッジやダンスは、みんな一流ですからね。僕はエジプト学も少しかじったし」
「かじったどころではないわ、サンディ。つまらない卑下なさるもんではなくてよ」
「よろしい。かじったどころではない。あなたが、それに興味をお持ちだからな。ところが、ほかの物にはあなたは大して興味をお持ちではない。あなたは生真面目ですね、ヘレン。とっても生真面目だ」
 何か訳があるのだろうが、生真面目だといわれると、どの女も内心あまり喜ばない。ヘレン・ローリンはいささか弱ったような目つきで彼を見かえした。愛情、疑念、当惑、それからサンディはああいったものの本気でいったのではないに違いないという確信が、彼女の頭の中で相争った。
「そうした根拠があるから」サンディは続けた。「僕はあんたと巧く行くと保証できるんです。そうした根拠があるから、僕はどんな問題にでも熟達してみせますよ。エスペラント語から熱帯魚にいたるまで。僕は……」彼は話をやめた。急に、その半ば暗闇の厳格さをうち破るように、彼の語調が変った。
「いったいなにを僕はやってるんだ」彼はいい足した。「まるでくだらんノエル・カワードの芝居みたいなことをいって!」
「サンディ、お願いよ!」
「僕はあんたを愛しているんだ。それだけでいいんだ。ああ、それから、あんたが僕を『好き』だなんていわないで下さいよ。それはもう知っているんだから。要点は、ヘレン、紋切り型だけれど、ほかに誰かいるか、ということなんだ」彼はしばらく躊躇した。「たとえば、キット・ファレルなんかは?」
 ヘレンは彼を真正面から見つめようとしたが、できなかった。
「知らないわ!」彼女は大きな声をだした。
「あんたはキットに会うんだろうな、ロンドンに帰ったらば」
「ええ。会うと思うわ」
 サンディはふくれた。また顎を、組みあわせた両手の上におろした。
「人によっては」彼は理屈っぽくなってきた。「クリストファ・ファレル氏をキザッぽいニヤケた男だという。僕はそうはいわないです。彼の真価を知っているんで。でも、こんな間違った話はないんだ! 全部間違っているんだ!」
「どういう意味なの、間違っているって?」
「だって、見てごらんなさい! キット・ファレルをごらんなさい。あらゆる意味で好男子です。一方、僕をごらんなさい。僕の顔では時計を停められないだけではなく――時計は逆にまわりはじめて十三も打ってしまう」
「あら、サンディ、そんなこと全然かまわないじゃないの?」
「いいえ。かまいますよ」
 凄く当惑してしまって、ヘレンはまた顔をそむけた。
「彼のような奴こそ社交界に出没していればいいんです」サンディはなおもつづけた。「そして、僕こそ法律事務所でアクセク勉強すべきなのです。でも、事実はそうでしょうか。大違いです。ちょうどその正反対なのです。あいつは何とやら判決録の中の、一八五二年のホイスルビとバウンサの間の訴訟事件に興味を持っている――ひどく持っている。そしてあなたは」彼は、長ったらしい弾劾演説のしめくくりとして、彼女に攻撃の矢を投げた。「生真面目ときている。あなたが一番最近に笑ったのはいつでした!」
 彼も恐らく驚いたであろうが、このときヘレンが笑ったのである。
「本当をいえば」彼女は答えた。「たしか今朝だったと思うわ」
「へえ?」サンディはいぶかしげな口調だった。まるで誰か他人が彼女を笑わせたのが腹が立つといった調子だった。
「そうよ。このホテルに泊っている男の人で……」
 サンディは額を叩いた。
「よしてよ、馬鹿ね! その男の人は私のお祖父ちゃまになれるくらいのお年の人なのよ!」
「なんという名なんです?」
「メリヴェル。ヘンリ・メリヴェル卿よ」
 黒っぽいとび色の目には、まだ不安の色が残っていたが、ヘレンは身体を後ろにもたれかけて、天井の一角を眺めた。思い出し笑いに、顔全体がにわかに明るくなった。
 彼女は知らないのであったが、ひとたびヘンリ・メリヴェル卿が現われると、往々にして憤慨したり、また狂暴になったりする場合もあるが、まず一座の厳粛感をなくしてしまうのは必定なのである。
「こちらには静養に来ていることになっているのよ」彼女は説明した。「もっとも、実際には、どこも悪いところはないの。そして、明日出発するとおっしゃるの。こう始終お金をごまかされるのでは、気候のお蔭で得られた、いい効果がすっかり台なしになってしまうから、ですって。そうおっしゃりながら、とても大変な切抜き帳を作っていらっして……」
「切抜き帳?」
「ご自分の活躍の記事なの。ここ何年間かの、新聞の切抜きの大きな束を整理していらっしゃるの。サンディ、その切抜き帳は全然素晴らしいのよ! それは」
 グランド・ピアノの側にある小さいテーブルの上で電話が鋭く鳴った。
 ちょっとの間、沈黙があった。まるでサンディもヘレン・ローリンも、動くのがいやであるかのようだった。が、彼女がとびあがって電話の方へ駈けた。受話器をとりあげたとき、彼女の顔は蔭になっていたが、その目の輝いているのが、彼には見えた。
「あなたのお父さん?」彼はきいた。
 ヘレンは手を受話器の口に当てた。
「違うの。療養所のマクベーン博士なの。父は……こっちに来る途中だって」
 彼にはきき取れなかったが、電話はかすかな音をいつまでも続けた。無限に続いて行くような気がして、神経が苛立った。その間に、ほかに三十通話ぐらいできそうな長い時間だった。やっとのことでヘレンは受話器を台の上に戻したのだったが、大きな耳障りなガチャンという音を立てたところからみて、彼女の手が定まっていないのがわかった。
「ギルレー教授がなくなったのよ」

……巻頭より

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