「ブラウン神父の醜聞」(1・2)

チェスタートン/村崎敏郎訳

(1)ドットブック版 163KB/テキストファイル 91KB

(2)ドットブック版 150KB/テキストファイル 77KB

各300円

チェスタートンが晩年に書いたブラウン神父もの最後の短篇集。特有のユーモラスな味が一層濃厚になってきて、神秘的な雰囲気がやや薄れ、なかには、純粋のユーモア小説といってもおかしくないような作品もある。だが、どれも、含蓄のあるユーモアたっぷりな書き出しでちょっと滑稽な人物紹介をやってゆきながら、いつか深い瞑想の世界へ読者を引きこんでゆく。これは探偵小説の根本になるトリックが他の追随を許さないほど独創的で巧妙だからだ。1には「ブラウン神父の醜聞」「手早いやつ」「古書の呪い」「緑色の人」「青君の追跡」の5編を、2には「共産主義者の犯罪」「ピンの先」「解けない問題」「村の吸血鬼」の4編と「解説」を収めてある。
立ち読みフロア
 半ズボンの青年が、血色のいい熱心な横顔を見せながら、砂浜と海に平行したリンクで、独りゴルフを楽しんでいた。あたりは夕闇で灰色になりかけていた。青年はむぞうさにボールを打ちまくっているわけではなく、むしろ特殊のストロークを人目につかない激しさで練習しているのであった……キチンと身ぎれいにした旋風という感じであった。
 この青年はいろんなゲームを手早く習得していたが、ふつうより少しでも早く習得したい癖があった。どうやらそのために、六回のレッスンでバイオリンを習得する法とか、通信教授で完全なフランス語の発音を身につけられる法とかいうたぐいの、人目を引く広告の被害者になりがちであった。彼はこういう希望に満ちた広告や冒険のいきいきした雰囲気の中で暮らしていた。目下は、このリンクと境を接している大庭園のうしろに大きな屋敷を持っている海軍提督マイクル・クレイブン卿の個人秘書であった。なかなか大望があったので、相手がだれであろうと個人秘書をいつまでも続けるつもりはなかった。しかしまた理性的でもあったので、秘書をやめる最上の方法は、立派な秘書になることだと知っていた。したがって彼は大へん立派な秘書であった……提督の通信物がドンドン集まってきてたまったのを整理するのにも、ゴルフボールを相手にするときと同じように、すばやい一心不乱の精神集中法を用いていた。彼はいまのところひとりで適当に判断して通信物と取り組まなければならなかった。というのは提督は、この六カ月来、船に乗っていたからである。そして、もう帰途についていたが、まだ数時間のあいだは――あるいはことによると数日のあいだは――帰ってこないはずであった。
 運動家らしい大またで、ハロルド・ハーカーという名のこの青年は、リンクの囲いになっている芝生の高台に登った。そして砂浜の向こうの海を見わたすと、不思議な光景が見えた。あまりはっきり見えたわけではなかった……というのは宵闇が荒れ模様の空の下で刻々と暗くなっていたからである……しかしそれは、瞬間的な幻影のようなものであったためか、青年にとっては遠い昔の日の夢が、歴史の別の時代から出てきた幽霊が演じている芝居のような気がしたのであった。
 落日の名残りが銅色と金色の細長い縞になって、青というよりむしろ黒に近く見える海のはての暗い沖の上に、消え残っていた。しかし西空のこの輝きを背にしてひときわ黒く、影絵芝居の人影のようにクッキリ輪郭を浮きあがらせて通り過ぎたのは、かどが三つある三角帽をかぶり、剣を着けた二人の男であった……まるでたったいまネルソンの木造艦隊から上陸してきたようなかっこうであった。その姿は、たとえハーカー君にまぼろしを見る癖があったとしても、夢にも思いつきそうもないまぼろしであった。彼は血色がいいのと同じに科学的なタイプでもあったので、もし空想するとすれば、昔の軍艦より未来の飛行船が目にうかんだことであろう。そこで彼はごく分別よく、いくら未来派の人間でも自分の目で見た物は信じられるという結論に到達した。
 幻想が続いたのはホンの瞬間であった。二度目に見なおすと、目にはいったものは、異様ではあったが、信じられないものではなかった。二人の男は十五ヤードほど間隔をあけて一列に砂浜を大またに歩いていたが、ごくふつうの現代の海軍士官であった……しかし、この二人の海軍士官は、あのとほうもないような正装の制服を着ていた……これは、もし着ないですませられるものなら、士官たちは決して着やしない。せいぜい皇族の来臨のような大きな儀式の場合だけである。前に立って歩いている男はどうやらうしろから歩いてくる男に気がついていないらしかったが、ハーカーには、その秀でた高い鼻とスパイクのような形の顎ひげで、主人の提督だなと、すぐわかった。跡をつけているもう一人の男はハーカーの知らない人だった。しかしハーカーはこういう儀式的な場合と関係のある事がらについては多少知っていた。提督の船がこの付近の港にはいると、高貴の方が公式にお訪ねになるはずだということを知っていた。その意味なら、それでこの士官たちが正装していた理由はよくわかった。しかしハーカーは士官たちのことも――あるいはともかく提督の性質もよく知っていた。それだけに、提督が平服に着がえるか、少なくとも通常軍装に着がえるかするための、五分ぐらいのひまはあるにきまっているのに、何に夢中になってこんな盛装をこらして上陸して来たのか、それが秘書にはなんとも見当がつかなかった。ともかくこんなことはおよそ提督がやりそうもないことであった。実際これは後になっても、この神秘的なでき事の中での主な神秘の一つとして何週間も未解決のままに残った。そんなわけだったので、暗い海と砂地を背景にした、人けのない所にうかび出たこの幻想的な宮廷服姿は、なんとなく喜歌劇の舞台を連想させた……そして「軍艦ピナフォア」〔サリヴァンとギルバート作のオペラ〕の見物人を思い出させた。
 第二の人物はもっとずっと異様であった。正しい海軍大尉の軍服にもかかわらず、かっこうがなんとなく異様だったし、動作はなおさら異様であった。妙に不規則な、おちつかないようすで歩いていて、ときには早くなったり、ときには遅くなったりしていた……まるで提督に追いつこうか追いつくまいかと心を決めかねているようであった。提督はかなり耳が遠かったので、うしろから柔らかい砂地の上を歩いてくる足音がきこえないのはたしかであった。しかしうしろから来る足音は、もし探偵的にさぐってみたら、びっこを引いているかとも思えるし、ダンスをしているかとも思えるし、いろんな推測ができたろう。男の顔は影になって暗かったが、それと同時に浅黒かった。ときどきその目がキョロキョロ動いてキラリと光ったので、心の動揺がなおさら強く感じられた。一度は走りかけたが、やがてだしぬけに、ゆっくりむとんちゃくにノッシノッシと歩き出した。それから男はあることをした……それはハーカー氏には、英国王につかえるふつうの士官なら、たとえ気違い病院にはいっている男でも、まさかこんなことをしようとは思えないことであった。男は剣を引き抜いた。
 異常な前兆がこの爆発点に達したとき、通り過ぎていた二つの人影は岸の岬のかげに消えてしまった。目をみはっていた秘書は、ちょうど色の浅黒い未知の男が、またむとんちゃくなようすになって、キラキラ光る刃でカラカサ花の頭を打ち落すのを見とどけただけであった。男はその時は提督に追いつくのをすっかりあきらめていたようであった。しかしハロルド・ハーカー君の顔は、ほんとに大変考え深そうになっていた。そこに立ったまま、しばらく思いめぐらしていたが、やがて厳粛に陸のほうへ向かった……大きな屋敷の門の前を通って、海のほうへ長いカーブを描いている道のほうへ行った。
 提督が歩いていた方角から考えると、そしてまた当然、自分の屋敷へ向かうものと仮定すると、浜からカーブを描いているこの道を登ってくるはずであった。ゴルフリンクの下の砂浜伝いの細道は、岬のすぐ先で陸に向かい、やがて立派な道になってクレイブン邸のほうへ通じていた。そこで秘書が持ち前の短気を出して、帰ってくる主人を出迎えに矢のように駆けだしたのは、この道を下ったのであった。しかし主人はどうやら家へ帰ろうとしているのではなかった。またもっと変っていたのは、秘書もまた家へ帰ろうとしなかった……少なくとも数時間後まで帰らなかった。これだけ帰りがおそくなっては、クレイブン邸に驚愕と神秘がわき起こったのは当然であった。
 このかなり豪華すぎるほどの本邸の柱やシュロの木が立ちならんでいる背後では、実際いまかいまかと待ちもうけていた気分が、しだいに不安に変ってきていた。召使い頭のクライスは、どこにいても珍らしいほど無口な胆汁質の大男だが、正面玄関のホールを歩きまわったり、ときにはポーチの横の窓から表の白い道が海のほうに伸びているのを見たりしながら、なんとなくおちつかないようすであった。提督の妹で家政を預かっているマリオンは、兄そっくりの高い鼻をしていたが、もっとお高くとまっているような表情をしていた……口達者で、かなり長々とユーモアをまじえてしゃべり続けながら、ふいにオウムのようにカン高い声で一段と力説する芸当を心得ていた。提督の娘オリーブは色の浅黒い、夢を見ているような娘で、たいていはボンヤリ黙りこんでいて、どうやら陰気な感じであった。だから会話のほとんどは、たいてい伯母がリードしていたが、別に文句は出なかった。しかしこの令嬢にもふいに笑い声をあげる天賦の才能があって、それが大へん魅力的であった。
「変だねえ、なぜお二人とも帰ってこないのかしら」と伯母は言った。「郵便配達がはっきり話してくれたけど、提督が浜伝いに帰ってくるのを見たんですって。あのいやなルークとかいう人と一緒でしたって。いったいなぜみんなはあの人のことをルーク大尉だなんて言うのか……」
「そりゃあね」陰気な若い令嬢は、ホンの一時(いっとき)明るい口調になって、言い出した……そりゃ、あの方は副官ですから、大尉でしょう」
「わたしにはなぜ提督があんな男を雇っておくのかわかりませんよ」伯母はまるで女中の噂でもしているように鼻を鳴らした。彼女は大へん兄を自慢にして、いつも提督と呼んでいた。しかし海軍将校の地位に対する彼女の考えはいいかげんなものであった。
「そうね、ロージャー・ルークはムッツリしていて交際ぎらいだから損なたちですわ」とオリーブは答えた。「でも、もちろんそんなことはあの人の船乗りとしての才能にはじゃまにならないわ」
「船乗りですって!」伯母は、例のかなり人をハッとさせるオウムのような口調で、叫んだ。「あの人はわたしが考えてる船乗りと違いますよ。『船乗りを愛している娘』なんてわたしが若いころによくはやった歌だけどね……マア考えてごらん! あの人は陽気でのんびりした船乗りらしいところがありませんよ。船乗りの歌もうたわないし、陽気なホーンパイプも踊らないじゃないの」
「そうね」と姪はまじめに批評した。「提督だってあんまりホーンパイプを踊りませんわ」
「まあ、あなただってわたしの考えはわかっているでしょう――あの人は明るい所や陽気な所がないし、ちっとも船乗りらしくありませんよ。そら、あの秘書の男のほうがあれよりよっぽどましかもしれないわ」
 オリーブのかなり悲劇的な顔がくずれて、彼女の長所の若々しい笑い声が波打った。
「そりゃハーカーさんならきっと伯母さんのためにホーンパイプを踊ってくださるわね……そして独習書を見て半時間で覚えたのだと言うでしょうよ。あの人は年中そんなことを習ってますからね」
 娘はふいに笑うのをやめて、伯母のかなり緊張した顔を見た。
「変だわねえ、ハーカーさんが帰ってこないのはなぜかしら」と娘はつけくわえた。
「わたしはハーカーさんのことなんか心配していませんよ」と伯母は答えて、立ちあがると、窓の外をのぞいてみた。
 夜空の光はずっと前に黄色から灰色に変っていたが、いまは月の光がひろがってきたので、ほとんど真白に変って、浜のあたりの広々とした平坦な風景を照らしていた……何一つ目をさえぎる物もなかったが、ただ一つ池のまわりに汐風に曲りくねった木立があった。その先に、地平線を背にしてかなり無気味に黒ずんで見えるのは、漁師たちの集まる岸辺のみすぼらしい居酒屋で、緑人亭という名前がついていた。道にも風景のなかにも生き物の姿は何一つ見えなかった。宵のうちに海のそばを歩いている姿を見せた三角帽子をかぶったあの人影を見た者は一人もいなかった。それからその跡を追っている姿を見せたもう一人の見慣れない姿を見た者もいなかった。この二人を見た秘書の姿を見た者さえ一人もいなかった。
 秘書がとうとうだしぬけに帰ってきて、家内中を叩き起こしたのは真夜中過ぎであった。幽霊のように血の気がなくなった顔は、あとから同行してきた大男の警部の鈍感そうな顔や姿を背景にしているだけに、なおさら青ざめて見えた。どうやら警部の赤い重々しい無関心な顔は、血の気のない悩みきった秘書の顔以上に、不吉な運命の仮面に似ているようであった。このニュースを二人の婦人に打ち明けるときは、できるだけひかえ目にしたり、一部を隠したりした。しかしこのニュースは、クレイブン提督の体がけっきょくあの木立の池に浮かんでいる、雑草や浮きかすの中から引き上げられたということであった……そして提督はおぼれて死んでいた。
 だれでも秘書のハロルド・ハーカー君と親しい者ならなるほどと思うであろうが、この男はあれほど興奮していたのに、朝になるともうすっかり殺人現場にでもいるような気分になっていた。彼は、昨夜緑人亭のそばの路上で会った例の警部を無理に別室に連れこんで、実際的な内密の相談をした。彼が警部に質問する口調は、むしろ警部が田舎者に質問するときのような勢いであった。しかしバーンズ警部は鈍感な性格だったし、バカでもなし利口すぎもしなかったから、そんなささいなことには憤慨しなかった。警部が見かけほどバカでないことはすぐにわかりはじめた。というのは、彼はハーカーの熱心な質問を、ゆっくりはしているが整然とした合理的な態度で、すっかり処理したからである。
「なるほど」とハーカーは言った(彼の頭は『十日間で名探偵になる法』というような題のいろんな参考書でいっぱいになっていた)。「なるほど、これは古くからある三角問題でしょうね。事故か、自殺が、殺人か」
「どうも事故とは言えないようです」と警部は答えた。「まだ暗くなっていなかったあの池は、提督が自分の家の玄関のようによく知っているまっすぐな道路から、五十ヤードも離れています。あの池にはいりこむくらいなら、往来のぬかるみにはいりこんで用心深く寝ころがっていたでしょうよ。自殺については、そう言い出すだけの責任が持ちにくいし、これもどうやら考えられないようです。提督はなかなか活動的な成功者で、事実、百万長者に近い大へんな金持でした……もっともむろんそんなことは何の証拠にもなりませんがね。家庭生活もなかなか健全で楽しそうでした。およそ身を投げるなどとは思えない方です」
「そうすると結論は」秘書はゾッとするほど声を低くして言った……「どうやら第三の可能性になるわけでしょう」

……「緑色の人」冒頭

 

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