「ブッデンブローク家の人々(上・下)」

トーマス・マン/川村二郎訳

(上)ドットブック 385KB/テキストファイル 356KB
(下)ドットブック 377KB/テキストファイル 348KB

各900円

リューベックのある商会主の一家を四代(1835〜77)にわたって記した長篇小説。老ヨハン・ブッデンブロークは、弱さを知らぬ意志の強い男である。何年か前には、長男が自分の意にそわぬ家の娘と結婚したことを理由に、廃嫡をおこない、すでに自分の商会を次男の手に委ねている。だが、完全に引退したわけではなく、商会主としての権威をあいかわらず保持している。
 二代目はオランダ領事の肩書きも得、商会の仕事を大きくしていく意志においては父に劣らない。だが、父と異なり、がむしゃらに事業に専念するタイプではなく、妻の影響もあって、信仰のなかに弱さをかいま見せる人物である。彼はハンブルクの商人グリューンリヒとの提携をすすめるが、グリューンリヒの破産によって、商会に多大の損害を招くばかりでなく、半ば政略結婚として強制した娘トーニーとグリューンリヒとの間も破局に終わる。
 三代目のトーマスは、市の参事会議員にもなるが、彼には人間としての弱さと事業家としての弱さが、さらにはっきりとあらわれる。彼は商会の存続と、一家の体面のため、人生に足をとられた弟クリスティアンに対して、家長として厳しい態度を示す。だが、自らの中にも同じ弱点を感じとって深く悩み、ついには、この世にほとんど生きる意志を持たず、音楽のみを熱愛している一人息子ハノーを残したまま、ある日突然路上に倒れ、死んでしまう。ハノーが幼くしてチフスで死ぬと、商会はとざされ、家屋敷が売りに出された後には、二度結婚し、二度生家に戻ったトーニーが、一家の思い出にのみ生き永らえる。 

トーマス・マン(1875〜1955) 北ドイツの商業都市リューベックの古い商人の家の生まれ。父親が亡くなると、家族と共にミュンヘンに移り、保険会社や風刺新聞の社員として働いた。ショーペンハウアーとニーチェの哲学、さらに作曲家ワーグナーの影響を受ける。1897年、ベルリンの雑誌に短篇が掲載された後、同誌の出版元が、長篇小説も出したいとの意向を伝えてきた。そこでトーマス・マンは兄とともに、共同で自分たちの一家の歴史を書こうと思い立つ。しかし合作の計画は挫折し、トーマス・マンのみがこの創作にはげむことになった。作品ができあがるまでには、一家をあげての数多くの人たちが、老人の回想を聴き、エピソードを集めたりするなど、積極的に協力した。こうして完成した『ブッデンブローク家の人々』は1901年に出版され、毎年のように版を重ねてめざましい成功をおさめ、多くの言語に翻訳もされた。芸術家的な気質をもった男と、彼が属する中産階級の環境との間の対立というテーマは、のちの作品「トーニオ・クレーガー」にも、「ヴェニスに死す」にも見られる。しかし、マンの創作は、20世紀を代表する傑作小説とうたわれる「魔の山」(1924)で頂点をむかえる。33年にヒトラーが政権をとると、国外に亡命、初めはスイスに逃れ、ドイツ市民権を剥奪されると、38年アメリカに渡り、のちアメリカの市民権を得た。第二次世界大戦終結後、再びスイスに戻ってチューリヒに居を定め、そこで亡くなった。代表作は他に「ヨゼフとその兄弟」「ファウスト博士」など。

立ち読みフロア
第一部

「そは何か……そは――何か」
「さあ、大変だ、だいじな問題だよ、お嬢ちゃん!」
 ブッデンブローク領事夫人は、姑(しゅうとめ)と肩をならべて、白いワニスをぬり金色の獅子(しし)の頭に飾られ、クッションには淡い黄色のカヴァーを張った長いソファーに腰をおろしたまま、となりの肘かけ椅子に坐っている夫をちらと眺めやると、窓ぎわで祖父の膝に抱かれている自分の小さな娘を、窮地から救いだそうとした。
「トーニー!」と彼女はいった、「われ信ず、神われを――」
 すると小さなアントーニエは、やせぎすな八歳のからだを、光線の具合でさまざまに色を変えるごく軽い絹の子供服につつんで、かわいらしいブロンドの頭を心もち祖父の顔からそむけ、一心に考えこんだまま灰青色の目で室内を眺めたのだが、実は何も見てはいなかったので、もう一度「そは何か」とくり返し、間のびのした口調で「われ信ず、神われを」といったと思うと、突然顔をかがやかせ、ひと息に「――生きとし生けるものなべてとともに創りたまいしことを」とつけ加えたのだった。こうしていったん軌道に乗ってしまうと、今はもう喜びにあふれて、なだらかに、問答示教書――というのは、ほかならぬこの一八三五年に、いとも高邁明敏(こうまいめいびん)な市参事会の裁可のもとに、改訂新版が発行されたのだが――、そこにしるされた一言一句もたがえることなく、一箇条全体を暗誦することができたのだ。こんなにすらすら行くと、ちょうど冬、兄さんや弟と小さな橇(そり)に乗って、「エルサレム山」をすべりおりるときのような感じ、と彼女は思った。よけいな考えなんかどこかへ消えてしまって、とめようと思ってももうとまらなくなるの。
「さらには衣服と靴を」と彼女はいった、「食らいかつ飲むものを、住むべき家を、妻と子を、畑と家畜を……」このことばを聞くとしかし、老いたるヨハン・ブッデンブローク氏は、いきなり笑いだした、口をゆがめた忍び笑いながらきんきんとひびく声で、実はそれまでにこっそりと用意していた笑いなのだった。問答示教書をなぶりものにできる嬉しさのあまり笑ったので、どうやらこのささやかなテストを試みたのも、それだけが目的らしかった。彼はトーニーの畑と家畜のことをあれこれと問いただし、小麦一袋いくらかね、とたずね、ひとつ取引にのらないかと持ちかけるのだった。どんなに努力しても陰険な表情を作ることはできない彼の顔、善意にあふれ、ほのかなばら色にかがやくふくよかな顔は、真白な髪粉をかけた髪にふちどられており、ほんの申しわけといった風情の小さな辮髪が、鼠色の上着の大きなカラーに垂れかかっていた。七十歳になるというのに、彼は依然として青春時代の時好(モード)に忠誠を誓っていたのだ。ただボタンと大きなポケットのあいだに飾り紐をとりつけることだけは断念していたが、生涯一度も長ズボンをはいたことはなかった。彼の顎はがっしりと張った二重顎で、白いレースの胸飾りの上にいかにもゆったりとやすらっていた。
 だれもが彼と声を合わせて笑ったが、それは何よりも一家の長に対する敬意にもとづいたことだった。デュシャン家から輿入(こしい)れしたアントワネット・ブッデンブローク夫人は、夫とそっくり同じ笑いかたをした。ふっくらと肉づきのよい貴婦人で、ゆたかな白い捲き毛が耳をかくし、黒と淡いグレイの縞のワンピースにはなんの飾りもつけず、人柄のつつましさと素直さをうかがわせたが、まだ美しく白いその手は、膝の上におかれた小さなビロードの編物袋をおさえていた。長い年月のあいだに、彼女の顔だちは奇妙な具合に夫のそれと似かよってきていた。ただ目のかたちと生きいきしたその黒さばかりが、なかばロマン系に属する彼女の血筋をほのかに感じさせた。彼女の祖父はフランス系スイス人だったのだ。ただし彼女の生まれはハンブルクだった。
 彼女の嫁、つまり領事夫人エリーザベト・ブッデンブロークは、クレーガー家の娘で、ぷっと吹きだすような唇音ではじまる、クレーガー一家独特の笑いかたをした。笑いながら彼女は胸に顎を押しつけるのだった。クレーガー一族の例にもれず、彼女も、いかにも洗練されつくした品のよい物腰で、美人とはいえなかったにしても、彼女の明るい落ちつきのある声がひびき、ゆったりとしてやさしくおだやかな身のこなしが目にうつると、だれもが晴れやかな信頼感を胸にいだくのだった。頭の上では小さな冠のように編まれ、耳もとでは人工的にちぢらせたゆたかな捲き毛になっている彼女の赤みがかった髪は、小さなそばかすが点々と散っている極端に色白の顔としっくり調和していた。すこし長すぎる鼻と小さな口のあるこの顔の、特に目立った点といえば、下唇と顎のあいだがほんのわずかもくぼんでいないことだった。大きな提燈(ちょうちん)袖のついた短いコルセットには、淡い花模様を散らしたやわらかい薄地の絹でできた細いスカートがつづき、胸衣の上には非のうちどころのないほど美しいえりもとがあらわになっていた。大きな切子形のダイヤがいくつもきらめいている繻子(しゅす)のリボンが、そのえりもとを飾っていた。
 領事は幾分いらだたしげに、肘かけ椅子に坐ったままからだを前に傾けた。彼の上着は肉桂色で、襟幅が広く、袖は手首の下ではじめて細くなる三角袖だった。ぴったりしたズボンは水洗いのきく白い生地で、表に黒い縞がはいっていた。顎を埋めんばかりに高いぴんとしたカラーのまわりには、絹のネクタイがからみつき、太い幅の広いそのネクタイが、けばけばしいチョッキの胸あきをすっかり覆いかくしていた……幾分くぼんだ、注意深げな青い目は父親ゆずりで、ただまなざしは父親のそれより夢みがちな感じかもしれなかった。しかし顔だちは父親以上にきびしく鋭く、鼻は高く突きでた鉤鼻、そして頬には中ほどまでちぢれ毛のブロンドのもみあげが生え、老人の頬のふくよかさにははるかに及ばなかった。
 ブッデンブローク夫人は嫁の方に向き直ると、片手で嫁の腕をおさえ、彼女の膝をのぞきこむように目を伏せて忍び笑いしながらいった。
「いつもの通りね、おじいさんたら、ね、ベツィー……」「いつも」ということばを彼女は「ゆつも」と発音した。
 領事夫人は黙ったままただ細い手でおどかすようなふりをした。金の腕環が小さな音をたてた。それから彼女は一種独特な手つきで、口もとからきれいにととのえた髪へと撫であげたが、それはちょうど、口もとへ落ちかかった一本のほつれ毛をかきあげでもするようなしぐさだった。
 ところで領事はといえば、媚びるような微笑と非難のまじった口調で、こういったのだ。
「パパ、また神聖なものを茶化してよろこんでるんですね!」……

……冒頭より


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