「武家の生活」

三田村鳶魚著

ドットブック版 422KB/テキストファイル 178KB

700円

天保に生まれ昭和まで生きた、唯一の大名生活経験者、もと広島藩主の浅野長勲(ながこと)侯の貴重な聞書きにはじまり、武士道にたいする独自の見解を示した「武士道についての話」、大名気質を探った「殿様の研究」、大名の経済問題を探った「お大名の蔵入り」、さらには「武家の暮らし向き」「御家人生活を説明する古着屋」など、興味深い十六編を収録した独自の「武家生活事典的」論考。 

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、 「江戸学の祖」といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
旗本と御家人の差別

 前に挙げた牛込・四谷両所の古着屋町の所在を、江戸図と引き合せて御覧ください。そこは、この古着屋町を囲繞(いにょう)して、皆武家地であるのが知れましょう。実は、この古着屋町は、武家屋敷の中にある町家なのです。武家地と申すのは、旗本・御家人の住宅地であります。旗本にも貧乏なのは珍しくありませんが、小給な御家人は、窮迫していないのが珍しゅうございました。小給と申すのは百俵取り以下のことで、百石と申しても、御蔵米で頂いておれば、一石一俵の割合でございますから、百俵と百石と名称は違っても、実収は同様です。旗本と御家人との差別をいろいろな方面から眺めておりますが、俸禄の上からは、百石以上、九千九百石以下が旗本、百俵以下の武士を御家人と総称いたしておりました。『番衆狂歌』に、

   組付(くみつき)や百石以下の小給も身持勤めよ堅く守れよ

 与力・同心など皆組付です。

   小給も上下勤(かみしもつとめ)以上では分相応に成る筈ぞかし

 小給者の勤め向きによる格式で、日々上下(かみしも)着用で出勤いたします。上下勤めは百俵取りが多く、与力などは現米八十石で、割りがよいのですけれども、上下勤めではありません。

   小給の羽織袴や其以下も勤道具は心付べし

 上下勤めでない者は、羽織袴で出勤いたします。勤め向きによることではございますが、上下勤めより一段低い役柄で、概して百俵取れない者が多い。同心などは三十俵二人扶持で、羽織袴勤めの役柄です。何も与力・同心に限ったことではございませんけれども、皆さんにお馴染のものを例にした方がお分りが早いから、便宜に持ち出したのです。さて、同心でも町同心などは、いろいろな特別収入もあるので、表向きの切米や御扶持だけの計算ではないのです。これに反して、諸組の同心には、三十俵二人扶持以外の収入のないのもあります。
 同じ御家人でも、百俵以上と以下とでは、生計も違います。まして、三十俵等は一人の僕(しもべ)さえなく、いわゆる一僕の侍ではないのです。そうして、門もない家に住んでおりました。門と申せば片扉のはない、必ず両扉もの、両扉といえば百俵以上の家、百俵以下は皆木戸でした。片扉にしても、引き戸にしても、開き門ではなかったのです。まず見掛けからも知れるほど、お安くなっておりました。今日の計算にしても、一年に三十俵、これが何程になりましょう。二人扶持は一日一升の勘定、一ヶ月に三斗、一ヶ年にして三石六斗、両方あわせて何程になるか、地代も家賃も出しませんが、親もあれば妻子もある、一家五六口、なかなか骨が折れます。
 江戸の武士等の俸禄の低いわけは、すべてが三番勤めといって、三日に一日勤めるようになっておりました。これは、実際一人の働きで足りるところへ三人つかっている、手代りともに二人でよいはず、そこに一人の余裕を持つ、二人なら四十五俵ずつなのを、三人だから三十俵ずつになるといった勘定も否めますまい。とは申すものの、各自の所得が少いのは困る。もし人を減じて禄を増す算盤に出来るならば、そこに多少の緩和が得られもいたしましょうが、その代り、禄を失う者が何ともならないことになりましょう。それに、旧例古格を重んじます幕府は、決してそんな改革をいたしません。それ故、いつまでも小給微禄の者は難渋を続け、幾代となく貧乏に堪えていたのでございます。三十俵二人扶持を現在の米価で勘定して御覧になれば、今日とてもいかなる生計が立つかは、すぐにお分りになろうと存じます。まして、三十俵二人扶持以下の者もあるのでございますから、その生計の苦しいことは、お察し申すもお気の毒千万な次第です。それ故に、『番衆狂歌』にも、「勤め道具に心付けよ」というので、衣類・持物・大小は勿論のこと、出勤するのに見苦しくないように、これが食うに追われる中の苦労で、余程心掛けないと出来なかったのです。

内職の発展

 御家人は組屋敷があって、一所に集まったのもあり、そうでないのもありましたが、本郷・小石川・関口、下谷・本所・深川、芝・麻布、四谷・市ヶ谷・大久保、渋谷・目白、赤坂・青山・雑司ヶ谷・音羽、千駄ヶ谷・代々木、巣鴨・染井等におりました。彼等の俸禄は少かったけれども、拝領地は割合に広く頂いておりました。今日の月給取りが、地代を払い、家賃を払うのは、利口でなさ過ぎる。人を遣うには、生活に欠き難いものは、きっと与えておかなければなりません。かえって、昔の人間の方がそこは心得ていたのです。御家人の間には、この空地を利用する内職が、逸早く開始されました。麻布の組屋敷から草花を買い出すことは、宝暦のはじめに盛んでありました。続いて、代々木・千駄ヶ谷から鈴虫・蛬(きりぎりす)などの虫類、下谷からの金魚、巣鴨・大久保からは植木といったように、御家人等は、生計を補うために、俸禄に斉(ひと)しい、あるいはそれよりも多い収益のある内職を生じました。手内職と申して、屋内工業も屋外の内職より後に起りまして、青山の傘・提燈、巣鴨の羽根、山の手を通じて凧張り・小鳥・針摺(はりすり)・竹細工といったようなものが、そこを産地とするほどに発達いたしました。
 御家人の内職は、宝暦前後からだんだんに発達して、寛政以後は立派に成り立ったと見えます。化政あたりからは、御家人の中に職人気取りの人物さえあるようになりました。そこで『当風辻談義』(宝暦三年版)などの記載を見ますと、明治の笑い草であった士族の商法よろしくで、御家人の内職も、当初は相手にされなかったと見えます。
 今時は素人細工が何にもかもあつて、しゆろぼうき、傘の類、一切の道具、皆旦那の飯食ふて、地代店賃なしの細工故、値段も甚だ下値にて、一旦は重宝なやうなれど、職人の仕立とは格別なところあり、素人細工でも、傘などは雨を防ぐべきが、強い風雨には堪へぬやうなもの……

黙阿弥劇に残る俤(おもかげ)

 生計を苦労にして、日常に油断なく、内職に忙しいような正直者は多くない。御家人等の堕落が、甚しく世間に目立ってきたのは、安永・天明の頃からで、彼等の自暴自棄は、江戸の黄金時代といわれる文化・文政期に至って、その大多数に拡がったままで、幕末へ続きました。その俤(おもかげ)は、今日も河竹黙阿弥の書いた芝居の中に残っております。市中では、御家人といえば「悪(わ)る」のこと、「悪る」とは悪者のことに通用しておりました。往来でも御家人は避けて通す有様、それが小給者一般の状態とは申せませんけれども、大体に評判のすこぶるよろしくない者でした。勿論、その住所によって小給者の風儀も一概にはいわれません。小普請といって非役休職の者の多く住んでいる所ほど、仕癖が悪かったのです。非役休職の小給者は遊んでいるので、閑暇のままに、博奕・飲酒に耽り、放蕩無頼に成り行き、貧乏は弥増(いやま)しに募り、苦し紛れに不良なことをたくらみ、悪行を常とするようになります。本所・深川に悪い御家人が多く、山の手はまだ風儀がよいほうでありました。
 本所・深川に彼等の内職の世間に知られたのがないのは、世間を大事にする御家人がなく、稼ぐ小給者のいなかった、何よりの証拠であり、従って、古着でも買って間に合わせるほどの、狭い幅ながら余裕さえなかったので、同じ武家地でも、近所に古着屋町を持たなかったのです。そうすると、近所に古着屋町のあるのは、そこに住む小給者の生計を、何よりもよく説明するものなのが知れましょう。
 いい方の御家人等の住む近所にのみ古着屋町のあったことは、全く今日の人の思いも及ばない話だろうと存じます。明けるから暮れるまで日がな一日、御番に出ない日ごとに内職を稼ぐ小給者は、ただ衣食に追われるのみで、物見遊山に出る暇も なく、料理屋のみならず、飲食店の供給をよそにして、衣類さえ新調するのが難儀なればこそ、近所の古着屋が商売になるのでみれば、何を楽しみに生きていたろう、と考えさせもするのでございます。

……「御家人生活を説明する古着店」より

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