「埋められた時計」

E・S・ガードナー/中田耕治訳

ドットブック 357KB/テキストファイル 150KB

500円

第二次大戦に戦傷を負って帰還した青年ハーリーは、恋人アデールの運転するクーペに揺られて、南カリフォルニア山中にある彼女の別荘へと出向いた。明るい太陽と澄んだ山の空気は、なまなましい戦闘の記憶に暗くなりがちのハーリーの心に、元気と希望を与えてくれた。が、ふと別荘ちかくの落葉の中に寝転んだ彼は、あたりの静寂を破って音高くひびく時計の音にびっくりする。ブリキの箱に入った目覚し時計が、地中に埋められていた……。銀行の金を使いこみ、多額の金を持ち去った親戚の男の死に絡んで、カリフォルニア山中に展開される不気味な殺人事件。メイスン、デラ、私立探偵ポール・ドレイクのトリオが活躍する、スピーディな傑作ミステリ。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かしてペリイ・メイスンものの処女作「ビロードの爪」を発表、見せ場の法廷場面とハードボイルド・タッチで一躍人気作家に。メイスンものだけでも80作にのぼる。レイモンド・バー主演のテレビのメイスン・シリーズは有名。

立ち読みフロア
 そのクーペは、曲りくねった州道路を、エンジンの音を響かせて疾走していた。いつもひどく表情に豊んだアデール・ブレインの黒い瞳は、車がカーブにさしかかると、はげしい注意力をこめて今はしっかり視野をとらえていた。彼女は二十五歳だが、あるとき、姉のミリセントがこういったことがある。『アデールってぜんぜん年齢(とし)には見えないわね。五つもわかく見られるか、さもないと二十歳(はたち)も老けて見えるのよ』
 彼女のとなりにハーリー・レイマンドがドアの把手をつかんですわっていた。急カーブをまわりこむときの動揺で右の肘に重心がかからないようにかばっているのだった。陸軍の軍医が、腕の関節をやっと固定するようにしてくれたのだった。
『当分のあいだは硬直するよ』軍医に宣告された。『痛みもあるだろうな。自分でも、せいぜいその硬直をなくすようにすることだね。できるだけ力がかからないようにしたまえ』
 車の数百フィート下は、暗く、ひややかに点在する湖にむかって斑(まだ)らなす岩肌から山の清冽なながれがはげしくたぎりたって、日光をきらきらうつしながら、この峡谷にさわやかな水の音をたてていた。
 道は、山の急端にかかる吊橋をすぎて、峡谷の一方にむかってゆるやかな傾斜になり、かなり長いあいだ松林におおわれた高原をぬってゆく。
 左手にあたって南カリフォルニアの日光が、かさなりあってそびえている花崗岩質の山脈(やまなみ)を、めくるめくほどあざやかにうきだたせ、その下にひろがる影をまるでインクのしみのように見せていた。道は松林が、あたたかく乾燥した大気に強い匂いをただよわせている一帯の高原をぬってゆく。はるか右にあたって、どろどろに熔解した黄銅のような濃霧が低地を押しつつみ、峡谷にながれこんでいた。
「つかれたかい?」ハーリー・レイマンドがアデールにきいた。
「いいえ――すこし心配なだけよ」
 彼女は道路に注意を集中しながら、するどくカーブをきった。そして、道がわずかのあいだまっすぐになったとき、ちらりと彼に眼をやった。「あなたこそつかれているはずね」彼女は不意にいった。「復員してきたばかりだというのに、こうして、あなたを父の別荘につれてきてしまったわ。……それに、あなたは今日、あの昼食クラブで講演までやらされたんですものね」
 ハーリーはしずかにいった。「いや、つかれているわけじゃない。……ぼくは、こうした場所のあることをすっかり忘れていただけさ。今になってやっとなつかしい気がしはじめたよ」
「あの昼食クラブでなさったお話で、あなた、つかれなかったの?」
「ぼくがつかれるもんか」彼は笑った。「つかれたのは聴衆のほうさ」
「ハーリー、そんなことを言ってるんじゃないのよ」
「うん、わかっているよ」
「みんなに何を話したの?」
「あの連中は、おきまりの武勇談を期待していたらしいね。ぼくは、そんな話はしてやらなかった。今度の戦争は一つのビジネスであって――ファンファーレを吹奏したり、楽隊で行進したり、馬鹿さわぎをしたりせずに、各自がめいめいの仕事をいそしむように一生懸命に働かなければいけない、といってやった。もし、われわれが全力をあげて働かなければ手ひどいめにあわされる、といってやったよ」
 アデール・ブレインは不意にいった。「ハーリー、あなた、父のところで働くつもり?」
「ぼくに電話をくださってね、暇を見てきてくれ、とおっしゃった。今後のぼくの仕事の希望を知りたいそうだ」
「父にはあなたのような人が必要ね、信頼できる人が……父のところにいた人で――いいえ、こっちのことだけど」
「ジャック・ハーディスティのことだろう? 結果がよくなかったわけだね、アデール?」
「よしましょう、そんな話」彼女はそっけなくいった。すぐに、そんなそっけなさを弁解するように、「ええ、結果はたしかによくないわ、でも、あたしとしては、その話はしたくないの」
「なるほど」
 彼女はすばやく彼に視線を投げた。彼の声に響いていた無関心な調子は、彼女にははじめてのものだった。いろいろな点で、この男性はまるで見知らぬ人間も同然になっていた。つい一年前には、彼の心の動きならどんなことでも読みとることができた。それなのに、今の彼には驚かされることばかりだった。まるで彼の心のなかではケンヴェイルの会社は、望遠鏡を逆にして眺めるような微視的なものになり、彼女にとって重要に思われることなどは、彼にはすこしもとるに足りないものとして映るようだった。
 道は、ふたたびけわしい峡谷に入った。この急坂をのぼりきって、アデールはするどく左折し、高原に向って勾配をのぼったが、そこには、三角形になった斜面の頂上に建てられた山荘が、まるで松林のように、いかにも自然にそこに生えているように見えた。
 平屋建で、ひろいポーチが正面から一方の側にかぎの手にまわっていた。ポーチの横木と柱は、樹皮を剥いだだけの小さな丸木だった。外側は木羽(こば)で、風雪がこの山荘を、背景の緑と前景の松の葉の褐色にとけこむまでに年ふりたものにしていた。
「自然な感じでしょう?」彼女がきいた。
 うなずいた。
 このひと、退屈しているんだわ、という考えが頭をかすめて、彼女はすぐに彼の視線をとらえた。
「この場所のことはずいぶん考えたものだよ」彼がいった。
「ここにはこんな時代になかなか見られないものがあるんだ――静謐さが……どのくらいここにいるつもり?」
「あまり長くはいられないの」
「手伝おうか?」
「いいのよ、ただ家のなかをかたづけたり、罐詰の食料を調べたり、さしあたって必要な仕事に気をくばったりするだけですもの。あなたは日光浴でもしてやすんでいらっしゃい」
 彼が左肘をかばいながら車からおりるのを見まもった。「このへんの道はご存じね」彼女はいった。「つめたい泉の水があるのよ」
 彼女は急いで山荘に入り、窓をあけて空気を入れかえた。ハーリーは、小径をあるきまわって、深い木蔭に水晶のようにすみわたった冷たい水が泉から滾々(こんこん)と湧いているのを見つけた。その水を御影石模様のエナメルのコップで飲みほすと、さらに平らな岩の傍の、日のあたる窪地にむかってぶらぶらあるいて行った。彼の視線は、もはや紫色の影におおわれはじめたように峡谷を切る長い斜面に走った。松の梢をわずかにふるわせるだけの風もなかった。雲ひとつとどめない紺碧の空だった。日光にかがやきながらそそりたつ頂上にむかって、けわしくきりたっている岩の稜線を除いては、山脈(やまなみ)はことごとくパステルで塗りつぶしたように、るいるいとうねっていた。
 負傷したため体力がなくなった人間を不意におそう疲労を感じて、ハーリーは松の落葉のちりしく場所に頭をもたせかけ、なかば眼をとじた。片腕を動かすだけのことにも、人間的な限界をこえた精力の消耗を要求されるような気がした。『カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ』
 ハーリーは眼をあけた。うるさそうな表情が顔に浮んだ。ほんのわずかなあいだだけでいいから完全な静寂に身をゆだねていたかった……
『カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ』
 腕時計がこんなにうるさい音を立てるはずがないことはたしかだった。耳のすぐ傍の地面からきこえてくるような気がした。


……
冒頭より

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