「お菓子とビール」

サマセット・モーム/龍口直太郎訳

ドットブック 300KB/テキストファイル 216KB

600円

時流に乗ることに憂き身をやつす知り合いの作家に、近年亡くなったある大家の伝記を書きたいので協力してくれと頼まれる作家の「わたし」。破天荒なその大家のことは、「わたし」は私事にいたるまで知悉していた……作家の世界、ジャーナリズムの世界、社交の世界を皮肉たっぷりにえぐってみせるモームの快作。きれいごとのお菓子と、苦味があるが飾り気のないビール……ここには小説を読む醍醐味が。

サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。

立ち読みフロア

 だれかから電話がかかってきて、こちらが留守だとわかると、ではお帰りになったら、すぐにお電話をいただきたい、重要なお話があるから、という伝言を残していく場合、問題が重要なのは先方にとってであり、こちらにとってでないことが往々ある――という事実に私はこれまで気がついていた。こちらに贈り物をするとか、何か恩恵をほどこすとか、そういった場合だと、たいていの人間はそんなせっかちなことを言わず、もっとものわかりのいい返事をすることができる。
 だから、私は、夕飯のために着がえをする前、一杯飲んで、シガレットを一本吸って、新聞に目を通すのがやっとという時間に宿にもどって、おかみさんのミス・フェロウズから、アルロイ・キアさんがすぐに電話をしてくれるようにとの伝言があったと聞かされたとき、彼の要求など無視しても一向かまわぬと感じた。
「その方、小説家でしょ?」とおかみさんは私にきいた。
「そうだよ」
 彼女は電話のほうをいかにも好意ありげな視線でチラッと見やった。
「お呼びしましょうか?」
「いや、けっこう」
「こんどかかってきましたら、なんと申しましょうか?」
「用件をきいといてくれ」
「かしこまりました」
 彼女は口をとんがらかしていた。それから空《から》になったサイフォンを手に持つと、部屋の中がきちんとしていることをたしかめるようにサッと見まわしてから出ていった。ミス・フェロウズは大の小説好きで、ロイの作品は全部読んでいたにちがいない。私が彼をすげなく扱ったのがお気に召さなかったらしいところから察すると、彼女はどうやら彼の小説のファンであったらしい。その晩、もういちど宿にもどると、飾り棚の上に彼女の読みやすい達筆で記された、次のようなメモが置いてあった――。

 キアさんから二度お電話がありました。明日、昼食を共にすることができないでしょうか、もしご都合が悪ければ、いつがよろしいでしょうか、とのことです。

 私はおどろいて眉《まゆ》を上げた。ロイにはこのところ三か月も会っていないし、それもあるパーティでほんの数分間、話をしただけだ。やっこさんはたいへん親しそうにしてくれ――そういえば、初めからそうだったが――別れるときなど、私たちがこれほどめったに会わないのは残念だと心から遺憾の意を表したのだった。
「ロンドンなんて困った所ですよ」と彼は言った。「会いたいと思う人に会う時間がないですからね。来週のいつか、昼飯《ひるめし》でもごいっしょしませんか?」
「けっこうだね」と私は答えた。
「うちに帰ったら、手帳を見て、お電話しますよ」
「いや、どうも」
 私はロイと二十年間も知り合っていたので、彼がいつでもチョッキの左上のポケットに小さな手帳をしまっていて、その中に人との約束を控えておくのに気がついていた。それゆえ、彼からそれ以上に何の連絡がなくても、べつだん驚きもしなかった。さて、こんどはこのように熱心に私をもてなしたいと申し込んで来ているのだから、裏に何かがあるにちがいないと思わざるをえなかった。私は床につく前パイプを一服くゆらしながら、ロイが私と昼飯を食べたいと望む理由はいったい何であろうか、といろいろ考えてみた。彼の熱心な女性ファンの一人が私を紹介してくれとせがんでいるのだろうか、それとも、あるアメリカの編集者が、ロンドンに数日滞在している間に、私と接触できるように斡旋《あっせん》方をロイに頼んだのかもしれない。しかし私としては、やっこさんがそのような局面にぶつかって、それを切り抜けられないほど無策無能であるなどと想像すれば、古い友だちを見くびりすぎるそしりをまぬかれまい。それに、彼は私の都合のよい日を選ぶようにと言ったのであるから、私をだれかほかの人間に会わせようと望んでいることなどちょっと考えられなかった。
 その名声が万人の口にのぼっている仲間の小説家にたいして、ロイほど純粋の親切心を示すことのできる人間はいなかったが、しかしまた、怠け心や失敗や他人の成功がその名声に暗い陰を投げかけたとき、その小説家にたいしてロイほど愛想《あいそう》よくよそよそしい態度をとることのできる者もいなかった。いったい作家というものには浮き沈みがあるものだが、私がその当時、世間の評判になっていないことは自分でも知りすぎるほどよく知っていた。私が礼を失することなしにロイの招待を断る口実をみつけようと思えばいくらでもみつかることも明らかだった。しかし、彼は決意のかたい男で、自分自身に何か目的があって私に会いたいと決めたらさいご、あからさまに「勝手にしやがれ」とでも言わないかぎり、とても彼の執拗《しつよう》な意志を食いとめられないくらいよくわかっていた。だが、私のほうでは好奇心に駆られていたし、ロイにたいして相当の愛情も感じていたのだ。

……冒頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***