「カメラマンたちの昭和史」(全8巻)

小堺昭三著

各300円

「カメラマンたちの昭和史」は昭和を駆け抜けた作家小堺昭三(こさかいしょうぞう)によるドキュメントで、40人の著名カメラマンに直接インタビューし、10年の時間をかけてまとめられた異色の昭和風俗史・社会史です。
第1巻   購入手続きへ   「秋山庄太郎」「大竹省二」「植田正治」「入江泰吉」「杉山吉良」の5人の生きざまを追う。
第2巻   購入手続きへ 「土門拳」「林忠彦」「濱谷浩」「船山克」「中村正也」の5人を追う。
第3巻   購入手続きへ 「中村立行」「岩宮武二」「緑川洋一」「島田謹介」「小久保善吉」の5人を追う。
第4巻   購入手続きへ 「長野重一」「杵島隆」「藤本四八」「石井幸之助」「田嶋一雄」の5人を追う。
第5巻   購入手続きへ 「田沼武能」「佐藤明」「細江英公」「佐々木崑」「渡部雄吉」の5人を追う。
第6巻   購入手続きへ 「田中光常」「薗部澄」「藤川清」「奈良原一高」「早崎治」の5人を追う。
第7巻   購入手続きへ 「川田喜久治」「芳賀日出男」「須田健二」「今井寿恵」「堀内初太郎」の5人を追う。
第8巻   購入手続きへ 「吉田大朋」「花沢正治」「前田真三」「三木淳」「渡辺義雄」の5人に取材、「あとがき」を付す。
立ち読みフロア
その1 第1巻の「秋山庄太郎……光と影」冒頭

 今日のモデルは混血娘のアン・ルイス嬢。身長一六三、バスト八十四、ウエスト六十、ヒップ九十。紫と黄の柄模様のビキニスタイルで、栗色の長い髪を両手でかきあげるしぐさのポーズをとっている。笑顔にあどけなさがある。
 ところは港区麻布の秋山スタジオ。
 彼女の前に立っている秋山庄太郎さんは、青いカラーシャツの両袖を腕まくりしたそこらのオッさんといった恰好。顔はゴルフで日やけしていてチョコレート色。
 大きな眼玉が、彼女を舐(な)めまわすみたいに見ている。ギラギラ光って獲物を追いつめ、一点に据えようとする。かと思うと一瞬、遠くをさぐるような、この混血娘の向うにある何かを見極めるような表情になったりする。
 スタジオ内の灯が消され、高めからメインライトが彼女に当てられる。ひと呼吸いれて秋山は、三脚に据えたカメラに顔を近づける。唇がへの字にひきしまる。鼻をへしゃげてしまうくらいおしつけ、ファインダーをのぞく。
 その眼玉が、いっそうギロギロしてくる。完全に射程内に追いつめたという眼の色だ。背景は白のスクリーン。
 緊張の静寂がよぎる。助手たちは動かない。
「ルイスちゃんは幾つだったけ?」
 鼻がへしゃげたままで訊く。
 訊くというより、彼女の表情をさらにやわらげるための、間(ま)をとっているのだ。
「まだ十六です。来月、十七になります」
 混血娘は、舌ったらずな声で答えた。
「へえ、そんなに若いの。……首をこうまげて。右手首は首すじに当てて。そう、それでいいんだよ」
 呟いたと思ったらジャーッ、ジャーッ、ジャーッとたてつづけに三回、シャッターをおした。その掌は大福餅みたいにぽってりしていて、太い。指は丸っこくて、短い。しなやかな指などとはおよそ縁遠い。
 立ちあがる。彼女に近づく。
 左手の丸っこい指で、彼女の栗色の豊富な髪に、ちょっと触れてみる。このときも彼女の手の表情を気にする。秋山は、いちばんむずかしいのは手の位置だという。いかに自然に手がその位置にあるか、について腐心する。
 彼がカメラのところへもどると、緊張の静寂もまた反復した。再び鼻がへしゃげる。
「寒くないか?」
「いいえ」
 彼女が顔をかしげ、にーっと笑ったところを捉えてジャーッ、ジャーッ、ジャーッとまた三枚。
 秋山は呼吸をいれる。
 彼女のななめうしろから、秋山の若い助手が息をつめて、そーっと近づいてくる。そこから細い逆ライトを、かたちのいい彼女の鼻さきへ当てる。鼻さきが淡いレモン色になって美しい。再び、シャッターをたてつづけに切る音がする。秋山がまた呼吸をいれる。
 こんどは別の助手が霧吹きで、彼女の顔から肩、なめらかな胸へとチューッ、チューッと水を吹きつける。肉眼では捉えられないような微細な水玉が、キラキラと肌の上で光る。そこをすかさずジャーッ、ジャーッ、ジャーッ。
「はい、ご苦労さん」
 言いながら秋山庄太郎さんがカメラから離れ、煙草(ピース)をくわえたのは撮りはじめて十分後であった。わずかそれだけのあいだに四十枚を撮っている。すごい早撮りだ。
 そしてアン・ルイス嬢もまた、それから五分後には水着をぬいでパンタロンをはき、
「先生、ありがとうございました。じゃあまたね、バイバイ」
 手をふって帰ってゆく。
 撮影が終ってからもスタジオ内にぐずぐずしていられるのを、秋山は好まない。せっかく美しく撮ったものに幻滅を感じたくないからだ。そういう秋山であることを、彼女も知ってのことであった。
 秋山庄太郎は早撮りを身上としている。
「営業笑いが消えぬ間に……」
 と流行歌の一節でも口ずさむみたいに、いつも自分にそう言っている。

 

その2 第2巻の「土門拳……生きている傑作」冒頭

 土門拳について問うと若い写真家たちは、
「彼ほどアクのつよい写真家はいないんじゃない? 傲慢そのものって感じだな」
「あふれる自信と非の打ちどころのない作品……あれには圧倒されっぱなしだけど、微妙な反撥も感じちゃうな」
 おおかたが逃げ腰の反応をしめす。
 たしかにアクがつよい。人間的な弱さ脆(もろ)さがないし傲慢にもみえる。しかしそれ以上にわたしは、土門拳は自己顕示欲が並みはずれて旺盛な、写真界における別格の怪物だと思う。日本の写真家たちが、それこそ束になってかかってもビクともしない存在である。
 幕末の剣客近藤勇の、全身座像の古ぼけた肖像写真をながめて土門拳は、だれが撮影した作品だか不明ながら、
「新撰組の近藤勇の、虎鉄(こてつ)であろうか、長刀を左膝にひきよせて、神経質な顔でこちらを睨(にら)みつけているこの写真は、このテロリストの風貌を今日に伝えてあますところのない立派な写真だ」
 と、いたくほめそやしていたが、わたしに言わせてもらうならば、剛直そうでいて神経質なその風貌は土門拳そっくりに見える。彼は現代の近藤勇であり、虎鉄のかわりにカメラをたずさえていると思った。
 彼の代表作である『古寺巡礼』の一枚に、唐招提寺金堂の千手観音立像の両脇千手をクローズアップしたのがある。塗りのはげた褐色の木肌の、無数の仏様の手がこちらへむかってさし出されていて、そのなかの二本だけは太腕だ。この作品は壮厳であるが、じっと見つめていると気味わるくなってくる。そのたくさんの手でたぐり寄せられそうな、奇妙な感覚になってくる。
 わたしにはこの無数の手がぜんぶ、土門拳のものであるかのような気がしてならない。土門拳の体にくっついている手だ。これらの手をのばして彼は、世の中のあらゆるものを掴もうとしている。何もかも自分のものにしなければ気がすまない彼の貪婪(どんらん)さが、この手に象徴されていると見た。彼は仏像の手を撮ったのではなく、自分の心のなかの手を写しているのであり、それが不気味なのだ。
 わたしは、土門拳の写真の芸術性やカメラ技術について、分析したり論評したりする気にはなれない。その点は専門家が語り尽しているし、わたしの興味はむしろ、そういう手をもった怪物ぶりにある。なぜならば数多い彼の名作もさることながら、近藤勇の風貌そっくりで千手観音みたいな無数の手をもっている土門拳そのものの生きざまが、魅力ある稀有の作品に思えてならないからである。

 

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