「カルメン」

メリメ/江口清訳

エキスパンドブック 425KB/ドットブック版 150KB/テキストファイル 97KB

300円

コルドバの山中で「わたし」は山賊ドン・ホセに出会った。彼は、かつて自分はれっきとした騎兵伍長であったと告白する。地位も名誉も失い、今の境遇に堕ちてしまったのは、ジプシー女カルメンを愛してしまったためだと……。一人の女性に人生を狂わされ、破滅へと突き進んでゆくホセの運命を鮮やかな語り口で描いた不朽の名作。ビゼーのオペラ「カルメン」の原作である。佳品「エトルリアの壷」も収録してある。 エキスパンドブックは、現地に魅せられたライオネル・リンゼーの挿画入り。

プロスペル・メリメ(1803〜70) パリ生まれ。人間の情熱とエキゾチシズムに力点をおいた多くの作品で知られるが、政府の歴史記念物監督官に選ばれた考古学者でもあった。代表作『シャルル9世年代記』『マテオ・ファルコーネ』『カルメン』『コロンバ』など。

立ち読みフロア
女ってやつは、怒りっぽいものだ。
そうでない場合は二度だけ、
ベッドのなかと、墓にはいったときだけさ。
              ……パラダス

  わたしはコルドバで、一人の案内人と二頭の馬を雇い、荷物としては着替えのシャツ少しと、『シーザーの記録文書』一巻とを持って出かけたのだ。ある日のこと、一日じゅうカチェナ平原の高地をほっつき歩いて、太陽の直射に照りつけられ、へとへとに疲れ、喉(のど)が焼くように渇ききって、もう、シーザーもポンペイウスの息子たちも、どうでもなりやがれと思っていたとき、ふとわたしは、今歩いてきた小道からだいぶ遠くに、藺草(いぐさ)や芦(あし)がところどころに生えた緑の草地を見たのである。これは、泉が近くにあることを示していた。じじつ近づいてみると、草地と思ったところは沼地であって、カブラ山脈の支脈をなしている二つの高い山に挟まれた峡谷(きょうこく)から流れ出たらしい一条の小川が、ここにそそいでいる。この流れについてさかのぼれば、蛭(ひる)と蛙(かえる)のいない冷たい水がみつかるであろうし、たぶん岩のあいだには、少しぐらいの日陰があるに違いないと思ったのだ。
  峡谷にはいったとき、わたしの馬がいなないた。すると、姿は見えなかったが、もう一匹の馬がどこかで、これに答えていなないた。それから百歩ほど進んだかと思うと峡谷が突然ひらけて、まわりを高い絶壁に囲まれているために陽(ひ)の少しもささない、天然の円形競技場ともいうべきところに出た。旅行者にとっては、これ以上快適な休み場所がみつかろうとは思われない。切り立った岩の根から、清水が白い泡をたてて湧(わ)きだし、雪のようにまっ白な砂を敷きつめた、小さな池の中に落ちていた。あおあおと茂ったみごとな樫(かし)の木が五、六本、水際に生え、風を受けるというようなこともなく、たえず泉の水を吸いあげて、水面を、その暗い木陰でおおっていた。そのうえ、池のまわりには、柔らかくてつやつやした草が、この付近四十キロ四方の宿屋ではとうていみつけることができないほどの、りっぱな寝床を提供していたのだ。
  このような美しい場所をみつけた名誉は、しかしわたし一人のものではなかった。すでに一人の男が、そこで休んでいたからだ。おそらくその男は、わたしがそこへはいって行ったときは眠っていたらしい。彼は馬のいななきに目を覚まして、立ち上がると、自分の馬の側に近寄ってきた。馬は主人が眠っているのをこれ幸いと、付近の草をうまそうに食べていたのである。その男は中背(ちゅうぜい)の、一見したところ頑丈(がんじょう)そうな若者で、陰気な、しかも傲然(ごうぜん)たる目つきをしていた。その顔の色は、昔は美しかったに違いないが、すっかり陽に焼けて、髪の色より濃くなっていた。彼は、いっぽうの手で馬の口をとり、もういっぽうの手で、銅造りの小銃を握った。
  じつのところわたしは、ひとめ見て、小銃とその所有者の獰猛(どうもう)な様子に、いささか肝(きも)をつぶされたのだった。しかしながら、噂(うわさ)では盗賊のことをよく聞いていたが、いっこうに出くわさないので、まさかにこの男が盗賊だとは思わなかった。それに、よく実直な百姓が全身武装をして市場へ出かけるのを見て知っていたので、鉄砲を持っているということだけで、その未知の男の性格までも疑う理由はなかったのである。第一、何枚かのシャツと、エリゼビール版の『シーザーの記録文書』しか持たぬこの身に、害を与えたってはじまらないではないか?……と、思われた。
  で、わたしは小銃を持ったその男に、親しげに軽く会釈して、せっかくのおやすみ中を邪魔(じゃま)したのではないかと、微笑しながら尋ねた。彼は返事もせずに、わたしの頭のてっぺんから足の先までじろじろ見ていたが、納得がいったとみえ、次にはそのとき進み出た案内人を、同じように注意ぶかく眺めたのである。ところが案内人は、みるみるうちにまっさおになって、明らかに恐怖を見せながら、立ちすくんでいるのだ。こいつは、悪いやつに出会ったのかな! と思った。が、すぐにわたしは慎重な態度をとって、なんら不安な様子を見せないことにしたのだ。


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