「カザノヴァ回想録 第二巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 375KB/テキストファイル 410KB

1200円

破天荒な才気と知力、山師的な感覚、抜群の記憶力・行動力によって、18世紀ヨーロッパの各地の宮廷で勇名をはせた男の、一世一代の「回想録」。第二巻は21歳から28歳までの行状をつづっている。カザノヴァはチェゼーナで男装したフランスの名家の令嬢アンリエットにあって惚れこみ、数か月同棲するが、ミラノ、ジュネーヴまで同行して別れる。彼の心に最も深い印象をとどめた女であった。その後、カザノヴァはパリに出て、必死にフランス語を学びながら、たちまちパリの社交界に名を知られるようになる。革命前のルイ15世治下のパリの雰囲気がよく伝わってきて、そうした読み物としても、この部分はおもしろい。彼が肢体に惚れて肖像を描かせたオ・モルフィ嬢は王の愛妾になった。本巻のもう一つの白眉は一番最後の部分で描かれるムラーノのM・M修道女との関係である。

ジョバンニ・ジャーコモ・カザノヴァ(1725〜98)
 イタリアのヴェネチアに、俳優の両親の息子として生まれた。司祭、説教師、錬金術師、カバラ通、賭博者、バイオリニスト、軍人、スパイ、外交官、著述家、そして何よりも稀代の女性遍歴者として知られ、一生をさまざまな冒険のうちに過ごした。カサノヴァの名は今日「道楽者」「放蕩者」と同義語に用いられる。
 16歳のときスキャンダルを起こしてサン・チプリアーノ神学校を追放になり、ローマに出て枢機卿の秘書になった。以後の40数年間、彼はほとんどヨーロッパ中を股にかけて各地を遍歴した。45年にはヴェネチアのサン・サムエレ劇場のバイオリニスト、50年にはフランスのリヨン、52年にはパリ、その後、ドレスデン、プラハ、ウィーンをへて55年にヴェネチアに帰国。魔術師の嫌疑をかけられて投獄されたが、脱走してパリへ。パリでは官営富くじの導入者として成功し、経済に明るいと有名になって、華やかな社交界に交わった。ルイ15世の知遇を得、ローマ法王、ヴォルテール、ポンパドール夫人らとも知り合った。その後も、ローマ、ロンドン、ベルリン、リガ、サンクト・ペテルブルグ、ワルシャワに行き、決闘騒ぎを起こしてスペインに逃亡。74年にはヴェネチアにもどってしばらく政府スパイとして働いたあと、85年にボヘミヤのワルトシュタイン伯の図書館司書として落ち着いた。そこで「回想録」を執筆、98年にそこで亡くなった。
 カザノヴァは冒険家としての生涯のなかで多くのものを書いた。69年には「ヴェネチア史」を著し、75年にはホメロスの「イリアス」を翻訳したほか、多くのオペラ台本を書き、地底に旅するSFまで書いた。だがカサノヴァの文筆家としての名声は「回想録」につきる。この本はそのあけすけな内容のためにむろん生前には出版されず、たとえ日の目をみても検閲本ばかりで、完本は1960〜62年にドイツで初めて出版された。この翻訳はむろん完訳本である。「回想録」は18世紀のヨーロッパ都市社会の実態を記録したきわめてすぐれた記録文学ともなっている。ルソーもモーツァルトも、その時代に生きていた。

立ち読みフロア
 約束の日、いつもの時間に別荘へ行くと、上流婦人の衣装をつけた美しいM・Mが暖炉に背を向けて立っていた。
「あの人はまだ来てませんの。来たらすぐに目くばせをしますわ」
「どこです、その小部屋は?」
「ここですよ。壁に寄せかけてあるソファのうしろを見てごらんなさい。壁に浮彫りになっている花模様がたくさんあるでしょう。あの花の芯には穴があいていて、うしろの部屋へ通じているのです。そこにはベッドもテーブルも、入用のものは全部そなえつけてあって、七時間でも八時間でもひとりでゆっくり腰をすえて、ここでしていることをのぞけるのですよ」
「それはあの人が自分でつくらせたのですか」
「そうじゃありません。こんな仕掛けを利用することがあるなんて、思いもっかなかったんですもの」
「そこからのぞいてたら、非常におもしろいだろうと思いますね。だが、気分がわいてきてあんたを抱きたくてたまらなくなっても、それができないとなると、どうするでしょう」
「それはわたしの知ったことではありませんわ。いやになったら出ていってもいいし、ねてしまってもいいのですからね。けれども、あなたが自然のままにふるまったら、いつまでも喜んで見ていると思いますわ」
「もちろんそうしますが、少しお行儀をよくしようかと思うのですが」
「そんなことだめよ。だいいち、自然でなくなるじゃありませんか。愛の情熱に身をまかせる恋人同士がお行儀よくするなんて、そんなことどこで教わってきたんですの?」
「なるほどね。それじゃあ、せいぜいきめこまかくいきましょう」
「それならけっこうですわ。いつもの調子でいいのよ。あなたのお手紙は嬉しかったわ。とてもふかくつっこんでお考えになったのね」
 M・Mは帽子をかぶらずにいたが、髪形も無造作であった。衣装は空色のキルティングしたドレスだけで、耳にダイヤの玉をつるしていたが、首飾りはしていなかった。銀糸のはいった絹レースのネッカチーフが、いそいで掛けてきたという風情で、美しい胸をのぞかせ、ドレスの襟《えり》の境い目にきわだった白さを見せていた。履物《はきもの》は上靴であった。ほのかに微笑をたたえたつつましやかな顔は「これがあなたのお愛しになっている女よ」とささやくように見えた。私が異様に感じ、また非常に好ましく思ったのは、口紅をつけていたことで、それはヴェルサイユ宮廷の貴婦人の流行にしたがうものであった。この口紅の楽しみはうっかりすると相手の頬へ赤くしるしをつけるところにある。紅の色は自然でないほうが好まれ、恋の陶酔のしるしをしめして見る目を楽しませるためにつけるが、このしるしはさらに将来の浮気と情熱とを約束するものである。彼女は口紅をつけたのは、恋人が好きだからだといった。私はそういう趣味から考えると、その人はフランス人ではないかと思われるといったが、そのとき彼女は目くばせをした。当の恋人がやってきたのである。いよいよ喜劇の幕をあげなければならない。
「ぼくはねえ、わが天使よ、きみの顔を見ていればいるほど、いくら崇拝してもしきれないような気がするよ」
「でも、あんたは残酷な女神は崇拝しないっておっしゃったでしょ」
「だから、きみの気持をやわらげるのではなく、燃えたたせるために生贄《いけにえ》をささげるつもりさ。ひと晩じゅう礼拝の情熱をいやっていうほど感じさせてやるよ」
「あたしもあんたの生贄に無関心ではいられないと思うわ」
「では、さっそくはじめよう。だが、その効果を百パーセント高めるには、先に夕食をやったほうがいいと思うね。だって、ぼくの胃袋にはココア一杯と、生玉子の白味が六つ分しかはいっていないんだからね。それはルッカのオリーヴ油と四人の盗賊じるしの酢であえたサラダで食べたんだが」
「それでは、きっとどこか悪いのよ」
「そうかもしれない。だが、その白味をひとつ分ずつきみの熱い心のなかにながしこめば、きっと元気になるよ」
「あんたに興奮剤《フリュスタトワ》〔ラテン語のフルストラティオ、「欲求不満」からきているが、俗語ではあきらかに「勃起」を意味する〕がお入り用だとは思わなかったわ」
「きみが相手なら、だれにもそんなものは必要じゃないよ。だが、ひとつ心配なことがあるんだよ。もしも不発に終わるようなことになったら、ピストルで頭をぶちぬかなけりゃならないんでね」
「あら、不発に終わるって、どんなこと?」
「比喩的な意味では、やりそこなうことさ。具体的にいうと、敵に向かってピストルを撃とうとしても弾丸が出ないことなのさ。それで、敵を仕止めそこなうというわけ」
「よくわかったわ。ほんとに、恋しいあんたがそんなことになったら、困っちゃうわ。けれど、頭をぶちわることはなくてよ」
「それじゃ、どういうふうにしてくれるの?」
「さきにこのマントをぬがせてあげるわ。それから、この腰当てもとりましょうよ」
「そりゃ、むずかしいよ。釘づけになってるんだから」
「釘づけって?」
「まあ、手を入れて、見てごらんよ」
「あら、いやねえ、玉子の白味のせいで、こんな釘ができちゃったのね」
「いや、ちがう、ぼくの天使よ。きみの美しい身体のせいだよ」

……第四十一章 [もうひとりの恋人の前で]より

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