「カザノヴァ回想録 第三巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 356KB/テキストファイル 390KB

1200円

ムラーノのM・M修道女との淫楽はC・C嬢も巻き込んでとどまることがなかったが、M・Mのパトロンであるフランス大使がオーストリアに転任となりM・Mは病の床につく。その後も関係は続いたが、カサノヴァが人心をまどわしたという罪で投獄され、二人の関係は断たれてしまう。本巻のクライマックスはこのヴェネチアの「鉛屋根の牢獄」からのカサノヴァの脱獄劇。この話は広く知られるようになってヨーロッパじゅうを沸かせた。パリに逃れたカサノヴァは持ち前の弁舌と怪しげな算易(カバラ)を武器に上流社会にもぐりこみ、国営の富くじを提言して受け入れられ、みずからも金儲けする。女性遍歴はパリでもつづく。

ジョバンニ・ジャーコモ・カザノヴァ(1725〜98)
 イタリアのヴェネチアに、俳優の両親の息子として生まれた。司祭、説教師、錬金術師、カバラ通、賭博者、バイオリニスト、軍人、スパイ、外交官、著述家、そして何よりも稀代の女性遍歴者として知られ、一生をさまざまな冒険のうちに過ごした。カサノヴァの名は今日「道楽者」「放蕩者」と同義語に用いられる。
 16歳のときスキャンダルを起こしてサン・チプリアーノ神学校を追放になり、ローマに出て枢機卿の秘書になった。以後の40数年間、彼はほとんどヨーロッパ中を股にかけて各地を遍歴した。45年にはヴェネチアのサン・サムエレ劇場のバイオリニスト、50年にはフランスのリヨン、52年にはパリ、その後、ドレスデン、プラハ、ウィーンをへて55年にヴェネチアに帰国。魔術師の嫌疑をかけられて投獄されたが、脱走してパリへ。パリでは官営富くじの導入者として成功し、経済に明るいと有名になって、華やかな社交界に交わった。ルイ15世の知遇を得、ローマ法王、ヴォルテール、ポンパドール夫人らとも知り合った。その後も、ローマ、ロンドン、ベルリン、リガ、サンクト・ペテルブルグ、ワルシャワに行き、決闘騒ぎを起こしてスペインに逃亡。74年にはヴェネチアにもどってしばらく政府スパイとして働いたあと、85年にボヘミヤのワルトシュタイン伯の図書館司書として落ち着いた。そこで「回想録」を執筆、98年にそこで亡くなった。
 カザノヴァは冒険家としての生涯のなかで多くのものを書いた。69年には「ヴェネチア史」を著し、75年にはホメロスの「イリアス」を翻訳したほか、多くのオペラ台本を書き、地底に旅するSFまで書いた。だがカサノヴァの文筆家としての名声は「回想録」につきる。この本はそのあけすけな内容のためにむろん生前には出版されず、たとえ日の目をみても検閲本ばかりで、完本は1960〜62年にドイツで初めて出版された。この翻訳はむろん完訳本である。「回想録」は18世紀のヨーロッパ都市社会の実態を記録したきわめてすぐれた記録文学ともなっている。

立ち読みフロア
 私は途方にくれ、気がぬけたようになって、鉄格子の枠へ腕をかけた。その枠は二フィート四方で、太さ一インチの鉄棒が縦横にはめこんであったので、五インチの四角い穴が十六あいていた。それはこの監房をいくらか明るくしたはずだが、一フィート半も幅のある四角い屋根組の梁《はり》が、私の斜め前にある天窓の下の壁にくいこんでいて、監房へはいる光をさえぎっていた。このすさまじい部屋は天井の高さが五フィート半しかなかったので、ほとんど手さぐりで、首をまげてひとまわりしてみたが、二トワーズ平方の四分の三ほどの面積しかないことがわかった。不足している四分の一の部分はたしかにベッドをはめこむようになっていたが、ベッドも椅子もテーブルも家具らしいものはなにもなかった。ただ用をたすためのバケツと棚板が一枚壁にとりつけてあるだけであった。棚板は幅が一フィートで、床から四フィートの高さにあった。私はそこへ絹の房《ふさ》のついたりっぱな外套、こんなときに着るはずではなかった仕立ておろしのきれいな服、白い羽根のついたスペインふうの縁《ふち》どりのある帽子などを置いた。暑さは耐えられないほどであった。私は途方にくれて、自然と格子窓のところへ寄っていった。そこが肘をついて身を休める唯一の場所であった。天窓は見えなかったが、さしこんでくる光は見えた。その薄明りをすかして、兎ほどの肥《こ》えふとった鼠がうろちょろしていた。見るもいまわしい、醜悪な動物どもは、こわがるようすもなく、鉄格子の下までやってきた。そこで、例のまるい穴を内側についていた戸でしめた。彼らの訪問が私に血も凍る思いをさせたからである。こうして、私はふかいもの思いに沈み、八時間というもの、覗《のぞ》き窓に肘をついたまま、ふかい静寂のなかで、身動きもせずにすごした。
 二十一時(午後三時ごろ)の鐘が鳴ったとき、私は目をさまし、だれも姿を見せないのが気になりはじめた。なにか食べたいかともききにこず、ベッドも椅子も、または少なくともパンや水をもってこないのが不安になった。食欲はなかったが、それをやつらが知るはずはないと思った。生まれてこのかた、あのときほど口のなかがかわいて、にがく思ったことはない。それでも、日の暮れるまでにはだれかくるだろうとあてにしていた。だが、二十四時(日没ごろ)の鐘が聞こえると、私は狂人のようになって、わめきだし、足を踏み鳴らし、悪態をつき、大声でどなって、役にもたたないばか騒ぎをはじめた。それも奇妙な立場にいきりたってのことであった。しかし、一時間以上こういう気違い沙汰を演じても、だれもあらわれず、だれかが私の怒号をきいたらしいと思われる気配もなかったので、鼠がとびこんでくるのをおそれ、鉄格子の戸をしめた。部屋のなかは真の闇だった。それから、髪をハンケチでつつんで、床の上へ横たわった。たとえ私を殺そうときめたとしても、そのようにほうりっぱなしにしておく非道な扱いはありえることとも思われなかった。そんなむごい待遇をされるようななにをしたろうと思って、いろいろ考えてみたが、それはものの一分とつづかなかった。これといって心にひっかかることがひとつもなかった。私はひどい道楽者で、臆面もない毒舌家で、人生を享楽することしか考えない人間だが、それが罪になるとは思われなかった。それなのに、こんな取扱いを受けている! 私を迫害する憎むべき専制主義者にたいして、怒りと憤慨と絶望とから、私がなにをわめき、なにを考えたか、それはくどくどいわずとも、読者はわかっているであろう。しかし、はげしい怒りと、胸を噛む心痛と、そろそろ感じはじめてきた空腹と、喉をやく渇《かわ》きと、身を横たえた固い床も、自然の本能がその権利を要求するのをさまたげず、私はぐっすり眠った。
 私の体質は元来睡眠を必要とした。そういう体質の肉体が若くて健康なときには、このはげしい欲求は他のあらゆる欲求を沈黙させる。こういう意味で、睡眠は人類の恩人だといえる。
 夜中の鐘に目をさました。目をさましてもなんの喜びもなく、ただ眠りのなかの幻想をしのぶにすぎない目覚めはじつにわびしい。なんの苦痛も感じずに三時間眠ったとは信じられなかった。ねついたときと同じく左を下にしたままで、身動きもせずにいたが、枕もとへハンケチを置いておいたのを思いだして、右手をのばした。そして、手さぐりでさがすうちに、これはどうだ! べつの手が氷のようにつめたくなっているのを知って、度胆をぬかれた。どんなに驚いたことだろう! まるで、頭の先から足の先までエレキにかかったようだった。髪の毛が一本のこらず逆立った。
 一生のあいだあのようなおそろしさを感じたこともなく、また感じられるとも思わなかった。三、四分のあいだは身動きもできず、なにも考えられずにいたらしい。少し気持が落ちつくと、さわったと思った手は空想の悪戯《いたずら》かもしれないと考えて、自分を慰めた。そして、そうにちがいないときめて、また同じ場所へ腕をのばした。が、やはり同じ手へさわったので、水を浴びせられたようにぞっとし、鋭い悲鳴をあげながら、その手をぎゅっとにぎり、それから放して、腕をひっこめた。身体じゅうががくがくふるえた。
 しかし、やがて分別をとりもどし、私のねているあいだに、だれかが死骸を運んできて、そばへおいたにちがいないときめた。さっき床の上へねたときには、たしかになにもなかったからだ。だれか罪もない不幸な男の死骸を、それは締め殺された友だちかもしれないが、それをそばへおいて、目がさめたら当然覚悟すべき運命を見せつけようとしたのだろうと想像した。こう考えると、むしょうに腹がたち、もう一度その手のほうへ手をのばして、ぎゅっとつかみ、同時に立ちあがって、死骸を引きよせ、事実の残虐さを確かめようとした。しかし、左の肘をついて身を起こすと、つかんでいた冷たい手が動きだして引っ込んだ。それで、私はとっさに、右手でつかんでいたのは自分の左手以外のなにものでもなかったのに気がついた。左手はしびれて不随になり、動作も感情も温か味もなくしてしまっていたのだ。哀れな私の身体がやすんでいた柔らかでしなやかでふわふわしたベッドのせいだった。
 この出来事は滑稽だったが、私を楽しませなかった。それどころか、暗い絶望の種を与えた。そして、虚偽が真実と思われ、現実が夢と見える場所にいることに気がついた。そこでは、良識も特権のなかばをうしない、道にはずれた気まぐれが理性を架空な希望やはげしい絶望の犠牲にしてしまうのだ。このことについては十分に警戒しなければならないと思った。そして、三十歳になりながら、生まれてはじめて哲学に救いを求めた。私はこの哲学のあらゆる萌芽を心のうちに持ちながら、いまだ一度もその価値を認めたり利用したりする機会がなかったのであった。
 人間の大部分もそういうことを考えずに死ぬのだろうと思う。これは精神や感覚の欠陥ではなく、考える能力の高揚に必要なショックは日常の習慣に反する異常な事件によってしか生じないからだと思う。
 こんな途方もない感動をうけたあとでは、もう眠ることなど問題ではなかった。だが、起きるわけにもいかなかった。立っていられないのだから。そこで、この場合もっとも合理的な決心をした。つまり、上半身を起こしたままでいることである。私は八時(午前二時)まで床の上にすわっていた。夜明けのほのかな光がさしはじめた。一時間十五分もたてば日が出るにちがいない。夜の明けるのが待ちどおしかった。きっとその日のうちに家へ帰されるという予感がし、それがまちがいのないことのように思われたのである。私は復讐の念に燃えていた。もう胸につつんでおく余裕はなかった。そして、自分が民衆の先頭に立って、政府をたたきつぶし、貴族をみなごろしにして、なにもかも木端微塵に打ちくだく姿を想像した。刑吏たちに迫害者の殺害を命じるだけでは気がすまず、自分から殺戮をやってのけなければならないと思った。人間とはこうしたものだ。心のなかでこういう扇動をするものが理性ではなく、理性の最大の敵の忿怒《ふんぬ》であることに気がつかないのだ。

……第四十九章 [鉛屋根の監獄にて]より


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