「カザノヴァ回想録 第四巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 379KB/テキストファイル 417KB

1200円

カザノヴァ34歳から35歳にかけての恋の冒険。パリからオランダのハーグ、ドイツのケルン、スイスのチューリッヒ、ローザンヌ、ジュネーヴ、フランスのグルノーブルへと転々とし、どこにあっても次々と漁色に精を出す。この間、ルソーを訪問したり、スイスのジュネーヴでは別荘滞在中のヴォルテールと詩論を戦わしたりする。
立ち読みフロア
 X・C・V嬢は六か月日にはいった。身体つきに気をもんで途方にくれていた。それで、もうベッドから出ようとせず、おおいに私を失望させた。だが、私がもう自分に惚れていないと思い込み、信頼している女友だちのように私に応対した。そして、腰や腹を見せたりさわらせたりして、こうなってしまってはもう人前に出ることができないとなげいた。私はいきおい産婆の役をつとめさせられたわけだが、彼女の魅力にたいしてまったく無関心をよそおい、いささかも心をうごかされたようすを見せなかった。だが、全身にわきたつ情火があらゆる孔《あな》からふきだし、もう我慢のできぬ思いだった。彼女は私をふるえあがらせるような口調で毒を飲んでしまうといい、私としても進退ここにきわまる思いであった。しかし、幸運の女神はとても滑稽な事件によって、私の悩みを解消してくれた。
 ある日デュルフェ夫人とふたりきりで昼食をしたとき、堕胎の確実な方法を知っているかどうかきいてみた。彼女はパラケルススの発明した『アロフ』〔初期の医学で非常に珍重された薬で、パラケルススも何度か言及しており、少なくとも十八の処方が残っている〕という薬は効果が確実で、用法もけっしてむずかしいことはないといい、写本を捜してきて、私に渡した。それはサフランの粉末と没薬《ミルラ》その他の薬種を蜂蜜にといて練り薬をつくるのであった。子宮をからにしたいと思う女は、この薬の一定量を相応した太さの円筒の先にぬり、それをヴァギナへ挿入して、例のまるい肉塊の頭の部分を刺激する。円筒は同時に追い出そうとする小さい敵の巣くっている小屋の閉ざされた扉に通じる運河をも刺激する。こういう方法を日に三、四回、六日か七日もつづけて行なうと、小さな扉がゆるみ、ついには自然と開いて、胎児が外へ落ちるというのであった。
 この処方や方法が荒唐無稽なことは、良識の目から見れば、すぐにわかる。私はおおいに笑ったが、二時間かかってパラケルススを全部読んだ。その説は読むにつれてますますとっぴょうしもないものになった。それから賢明な態度で『アロフ』を論じているブールハーフェ〔有名なオランダの医者でライデン大学教授〕を読んだ。
 まえにも話したとおり、私はあのうるわしい令嬢と毎日何時間もふたりだけですごしていた。しかも、内心恋いこがれながら、燃えたつ気持をおさえていなければならなかったので、灰のもとにうずもれた情火はたえず爆発しそうであった。彼女の面影がたえず心につきまとった。思うことは彼女のことばかり。それで、毎日、彼女の魅力を完全にわがものにできなければ心の安穏をとりもどせないという確信をふかめていった。

[自然の体温の精液と]
 翌日、自分の部屋でただひとりX・C・V嬢のことを考えていたとき、この堕胎の方法を彼女に教えてやろうと思いついた。円筒の挿入には私の助けをかりなければなるまいと目星をつけてのことであった。
 十時ごろ訪ねていくと、彼女はあいかわらずベッドにねていて、私の飲ませている阿片剤がちっともきかないと嘆いた。そこで、パラケルススの『アロフ』のことを話し、子宮の環をゆるめるには成功まちがいのない薬だといった。が、その薬の効能を吹聴しながら、ふと思いついて、この薬は出たばかりで自然の温かみを保存している精液とあえる必要があるのだと説明した。
「この場合、精液は出るとすぐ子宮の環にふれる必要があるのです。この方法を日に三、四回、五、六日つづけると、かならず小さい扉がひらき、胎児は自分の重みに押されて出てくるにちがいありません」
 私はさらに事の次第をくわしく説明し、この薬が医学的に考えて確実な効果をもつらしいといったが、彼女が考えこんでいるのを見て、あなたには恋人がいないのだから、人にあやしまれないような、親しい友だちに頼んで、日に三、四回、この粋《いき》な療法をやってもらわなければならないとつけくわえた。
 とつぜん、彼女はげらげら笑いだした。そして、いまのお話はまったくの冗談ではないかときいた。
 私はもうだめだと思った。この方法が非常識なことはあきらかだし、それを彼女の良識が推量したら、彼女は私がそんな方法を考えだした動機をうたがわずにいないだろう。
 しかし、ああいう状態の女はなんでも信じるものだ。
「お嬢さん、もしお望みならば」と、私はいかにも確信ありげにいった。「いま申しあげたことがこまかく書いてある貴重な写本と、また、ブールハーフェに書いてある決定的な解釈もお見せしますよ」
 この言葉で彼女は納得したらしい。これらの写本は魔法の本のような役をした。しかも私は追いうちをかけて彼女の確信をかためた。
「アロフは月経を促進する特効薬なのですよ」
 彼女はこう答えた。
「月経は妊娠しているあいだはないものですから、そうすると、アロフは堕胎の特効薬ということになりますね。つくり方をご存じですの?」
「もちろんです。ごく簡単なのです。ぼくの知っている五種類ばかりの材料を粉末にして新鮮な蜂蜜かバターでねりあわせればいいのです。しかし、はげしい愛情が湧きおこったときに、その練り薬を子宮の環につけなければいけないのです」
「そうすると、薬をつけてくれる人にも愛情がなければいけないのでしょうね」
「もちろんです。驢馬《ろば》のように肉体的な興奮だけしか感じないものはべつですがね」
 彼女は十五分以上も考えこんでしまった。彼女は頭はずばぬけてよかったが、気持がむじゃきだったので、私が臆面もなくもちいた欺瞞《ぎまん》を見やぶるまでにいたらなかった。私のほうも、とっさの思いつきで、そんな作り話をまことしやかにしゃべりまくったのを驚いて、黙りこんでしまった。


……第六十二章 [堕胎の秘薬アロフ]より

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