「カザノヴァ回想録 第六巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 358KB/テキストファイル 392KB

1200円

ミラノの謝肉祭で紹介された高貴なQ侯爵夫人に惹かれたカザノヴァは、二人の従姉妹とその恋人たちに、高価な衣裳をずたずたにして奇抜な格好をさせるなど、さまざまな手をつくしてQ夫人の気をひき、ついに目的を果たす。この巻の後半ではカザノヴァはロンドンに赴き、シャルピヨンという娘に手玉にとられ、とどのつまりは訴えられて入獄、ほうほうのていでイギリスを脱出する。
立ち読みフロア

 私はこのうるわしい娘に情念を燃やしていたが、あらかじめその美貌に眩惑されていなかったら、彼女は学問や文学への趣味だけで十分に私を恋い慕わせたであろうか。これははなはだ疑わしい。私は味覚を喜ばせる料理を好む。だが、それよりまえに視覚を喜ばせてくれなかったら、まずいといってつきかえすだろう。表面はまず第一に興味をそそるものである。それは美のありどころだ。そして、次に形態や性質をしらべる。もしそれがすばらしかったら、私は燃えはじめるのだ。精神や心情の探究にまでいたらない男は表面的である。しかし、あらゆる恋愛の情は表面からはじまる。ほかに空想から恋愛にいたるという現象もあるが、これはまったく妄想の類で、ほとんどつねに現実のまえにはひとたまりもなく砕けさるのである。
 私はクレメンティーナの姿で思いをみたされながらベッドにはいり、われとわが心を考えはじめた。そして、何時間もふたりだけでいながら、その差向いのあいだに、全然気まぐれな心を起こさなかったのに気がつき、不思議でならなかった。しかし、私をそういうふうに威圧していたのは、私には縁のない恐怖やはにかみでもなく、また偽(にせ)のつつましさや人が好んで義務と呼ぶものでもなかった。さらにまた美徳の尊重でもなかった。私は美徳をそれほどたてまつってはいない。では、なんだったろう? しかし、私はそれをつきとめようとして頭を疲れさせることはしなかった。ただ、わかっていたのは、そういうプラトニスムが長くつづかないということで、私はおおいに当惑した。しかし、この当惑は死の苦しみにもだえる美徳であった。いっしょに読んだ美しい事柄は、われわれに非常な興味を与え、その興味が愛の感情を吸収してしまったのだ。ふたりがいつまでも寄りそっているのをあんなに嬉しく思ったのは愛にほかならない。しかし、人もいうように、悪魔はけっしてどじを踏むものではない。精神のまえでは心情が勢力をうしない、美徳が勝ちをしめる。しかし、闘いは長くはつづかないにちがいない。われわれは勝利にあざむかれているのだ。そして、自分にたいして自信を得たが、その自信は粘土の足をもつ巨人だ。そして、自分は愛しているが、愛されているかどうかわからないという気持から来ているにちがいない。この巨像は真実が発見されたらそのとたんにくずれおちるにちがいない。
 こういう大胆な確信から、翌朝、私は彼女のところへ行って、ロディ行きについて何かしゃべってこようという気になった。馬車の準備はもうできていた。彼女はまだねむっていたが、私が部屋にはいっていくのをきいて、驚いて目をさました。私は言い訳をいうことも考えなかった。彼女はタッソーの『アミンタ』がとてもおもしろくて、ねるまえに読んでしまったといった。
「『パストール・フィドー』(信用できる牧人)はもっとおもしろいでしょうよ」
「『アミンタ』よりも美しいですの」
「そうともいえませんがね」
「では、どうしてそのほうがわたしの気に入るとお思いですの」
「心をひきつける魅力があるからですよ。ほろりとさせ、気持をそそのかしますよ。ぼくらはそういう魅惑的なものが好きですからね」
「では、それは悪い本ですの?」
「いや、そうではありませんが、あなたみたいに魅惑的なのですよ」
「その区別は大事ですわ。今夜読んでみましょう。では、わたし、服を着ますわ」
 彼女は私が男であることを忘れたように、私の前で服を着はじめたが、礼儀の道にもとるものではなかった。しかし、もしも私が恋いこがれていることを知っていたら、もっとつつましくしただろうと思わずにいられなかった。というのも、彼女がシュミーズを着、コルセットの紐をむすんでいるあいだに、また靴をはき、靴下どめを膝の上でとめたとき、私はまぶしいほど魅惑的な箇所を見てしまったからだ。それで、私は彼女が私の官能につけた情火を少し消そうとして、彼女が服を着おわるのを待たずに出ていかなければならなかった。
 私はアンブロジオ夫人とクレメンティーナとを自分の馬車に乗せ、折込み椅子に腰をおろして、膝の上にきれいなクッションをしいて赤ん坊をねかせた。美しいふたりの同伴者は息がつまるほど笑った。私がじょうずに赤ん坊をあつかい、まるで乳母のような恰好であったからだ。途中で幼い乳呑子(ちのみご)が乳をほしがりはじめた。すると、きれいな母親はふくよかな乳房をいそいで貪婪(どんらん)な赤ん坊の口に当てがった。私は美しい乳房をむさぼるようにながめたが、彼女は腹をたてもしなかった。私はそのすばらしい情景が楽しくてたまらなかった。喜びをかくそうにもかくせなかった。それで、赤ん坊が満腹して、母親のまるい乳房をはなし、乳が豊かにしたたりおちるのを見たとき、思わずこうさけんだ。
「奥さん、もうぼくは死にそうです。そのネクタール(ギリシャ神話での神酒、甘露)をぼくに吸わせてください。それをいただいたら、不死の神々と同じになるような気がするのです。歯のことはご心配いりません」
 当時、私にはまだ歯があったのだ!
 伯爵夫人は笑いだし、私の希望に反対しなかったので、さっそく乳房にとりすがった。ふたりの同伴者はどうにもならないほど笑いこけたが、私を哀れむようなようすであった。このこころよい笑いは絵画にはあらわせない。これをわれわれに描いてみせたのは、ホメロス、あの気高いホメロスだけだ。ヘクトールが軍団へもどるためにアンドロマケと別れていったあと、彼女が息子のアスティアナコスを腕に抱きしめる場面だ。

……第九十七章「白い甘露をわが唇に」より

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