「カザノヴァ回想録 第七巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 370KB/テキストファイル 405KB

1200円

ロンドンで恋の痛手を受けたカサノヴァは、ベルリン、ペテルスブルグ、モスクワ、ウィーンへと足をのばす。モスクワでは女帝エカテリーナ2世と談笑したり、ウィーンでは女帝マリア・テレジアから自由思想家と疑われて追放処分を受けたりする。だが、放浪を続けながら、いくさきざきで艶聞を絶やすことはなかった。この巻の末尾では、カザノヴァはスペインを訪れる。
立ち読みフロア
 私はあの娘たちに憐れみをかけてやらなかったのを後悔し、悲嘆にくれながら家へ帰った。だが、夕食の食卓につこうとしていたとき、娘たちがマグダラのマリアのようにしょんぼりと私の前へあらわれた。一統の代弁者の長女が、母親が監獄へ送られたので、ベッドのない部屋でもいいからとまらせてくれなければ、道路で夜をすごすよりほかはないといった。
「部屋もベッドも温かい暖炉も提供しましょう。ぼくはあなた方がものを食べるのが見たいのです。さあ、おすわりなさい」と、私はいった。彼女らが目を輝かしたので嬉しかった。そこで、炊事場にあった料理を全部もってこさせた。彼女らはおおいに食べたが、悲しそうで、水だけしか飲まなかった。
 私は長女にいった。
「みなさんが悲しそうで、葡萄酒も飲まないのはつまりませんね。妹さんたちと三階へ行きなさい。快適な一夜をすごすのに必要なものは全部そろっていますよ。だが、あしたの朝は七時に出ていって、もう二度とここへは来ないようにしてください」
 娘たちはひとこともいわずにあがっていった。
 一時間ばかりたって、ねようとしていたとき、長女が私の部屋へはいってきて、ふたりだけで話がしたいといった。そこで、黒人の下男を出ていかせて、どういう話だときいた。
「あたしがあなたといっしょにねたら、あたしたちのためにどういうことをしてくださいますの」と、彼女はきいた。
「二十ギニーあげますよ。そして、あなたがすなおにしているかぎり、ここへとめて食事を差し上げますよ」
 彼女はひとこともいわずに服をぬぎはじめ、私の自由にさせた。しかし、ただ服従するだけで、一度の接吻さえしてくれなかったので、十五分もたつと、その無関心ぶりが癪(しゃく)にさわって腹だたしくなってきた。そこで、起きあがって、二十ギニーの紙幣を与え、すぐに服を着て自分の部屋へもどれと、高飛車に命じた。
「夜があけたら、みんなここから出ていってください。あたたにはとても不満ですからね。こうして身をまかせながら愛情も感じないなんて、じつに下劣ですよ。あなたのために赤面したいくらいです」
 彼女はだまって私の命令にしたがい、私は非常に不満な気持で眠りにおちた。
朝の七時、軽い手がそっとゆすぶるのを感じた。目をあけると、驚いたことに、二番目の娘ヴィクトリアが前に立っていた。
「なんのご用ですか」と、私は冷たい、とがめるような口調できいた。
「あたし、あなたの憐れみをいただいて、もう何日かこちらへおいていただきたいのです。あたし、けっしてご厚意を無にするようなことはしません。姉からなにもかもききました。姉にはたいへんご不満のようですが、どうかゆるしてやってください。姉は思っている人がありますので、あれよりうまくできなかったのです。借金のために逮捕されているイタリア人の恋人がいるのです」
「あなたもだれかに恋しているのでしょうね」
「いいえ、あたしはまだだれも愛したことがありません」
 彼女は目をふせて、やさしく私の手をにぎりしめた。
 私はしずかに彼女を引きよせて接吻した。そして、彼女の唇が私の接吻に応えるのを感じ、
「あなたには負けましたよ」と、いった。
「ですから、あたし、ヴィクトリア〔勝利〕という名前ですの」
「そりゃいい名前だ。気に入りましたよ。この気持をあなたにはっきり見せてあげたい」
 ヴィクトリアはやさしく情をこめて、えもいえぬ二時間をすごさせた。そして、姉とすごした不愉快な十五分の埋合せを十分にしてくれた。
 この最初の歓楽のあとで、私は彼女にいった。
「かわいいヴィクトリア、ぼくはすっかりきみのものだ。お母さんが自由になったら、すぐにここへ連れておいで。ほら、きみの分の二十ギニーだよ」
 彼女は金をもらえると予期していなかったので、嬉しい驚きに胸をときめかせ、目が愛情と感謝でうるんだ。そして、口もきけないありさまだったが、喜びがまざまざと顔じゅうにあらわれていた。私も幸福だった。その幸福感には善根をほどこした喜びと愛欲をみたした満足とが同じ度合にいりまじりあっていた。徳の高いものでも堕落のどん底におちたものでも、男の心はそういう奇妙なさまざまの要素から成り立っているのだ。私はすぐにいつもどおりの食事を八人前命じ、グダール以外のすべての客に門をとざした。そして、ばかげた失費をし、財産が底をつきはじめているのを感じた。が、それでも享楽をやめず、リスボンへ行ったら取りかえしができるだろうと当てにしていた。


……第百十二章「淫売の姉と貞淑な妹」より

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