「カザノヴァ回想録 第八巻」

カザノヴァ/田辺貞之助訳

ドットブック版 347KB/テキストファイル 378KB

1200円

ニーナの希望どおりにバルセロナに着いたカザノヴァは、見知らぬ二人の男に襲われ、その一人を刺したため幽閉の憂き目をみる。結局、スペインから逃れ、マルセイユ、ニースを経て、カザノヴァは二十年近い放浪のすえ、故郷のイタリアへ帰ってくる。彼はフィレンツェ、ボローニャ、トリエステと渡り歩き、女優イレーヌとの再会のはなしで、この回想録は唐突におわる。
立ち読みフロア
 十一月十四日、いつもの時刻に彼女のところへ行った。ひとりの男が彼女に微細画を見せていたが、その男は、なんと、あの恥知らずの悪党パッサーノ、つまりポゴマスではないか。
 私は頭に血がかっかと逆流してきた。そこで、ニーナの手をつかんで隣の部屋へ引っぱっていき、あの男をすぐに追い出すか、さもなければ私が出ていって、二度とたずねてこないといった。
「あれは絵描きよ」
「それはわかっています。あいつのことは知っているのです。いずれなにもかも話します。だが、追い出してください。さもなければ、ぼくが帰ります」
 ニーナは姉を呼んで、例のジェノヴァ人に、すぐ出ていき、二度と足踏みをしてはいけないと命令するようにいった。
 事はさっそくそのように運ばれ、姉がもどってきて、彼は「いまに吠え面(づら)かかしてやる」といいながら出ていったと報告した。
 私は一時間にわたってあの怪物にたいする恨みの一部を彼女らに話してきかせた。
 翌日、十一月十五日、私はいつもの時刻にニーナをたずね、姉をまじえて二時間ばかり楽しい話をし、十二時が鳴るのをきいて引きあげた。
 彼女の家の戸口は通りのはしまでつづくアーケードの下にあった。
 あたりはまっ暗であった。二十五歩ばかり行くと、ふたりの男がいきなりおそいかかってきた。
 私はとっさに後へさがって、「人殺し!」とさけびながら剣をぬき、手近にいた男をぐさりと刺した。そして、アーケードからとびだし、道路との境の低い壁をとびこえて、往来のまんなかへ出ると、一目散に逃げだした。べつの男がピストルをうったが、幸いに当たらなかった。途中でころんだが、すぐに起きあがった。ころんだ拍子に帽子をなくしたが、それを捜そうともせずに、抜き身の剣を持ったまま、自分が怪我をしたかどうかもわからずに、走りに走った。そして、息せききって旅館へつくと、カウンターにいた主人の前へ剣をほうりだした。剣は血だらけであった。
 私はお人好しの老人にいまの事件を話し、フロックコートをぬいでみると、脇の下に穴がふたつあいていた。私はスイス人にいった。
「ぼくはすぐねにいきます。剣とフロックコートはあずけておきます。あしたの朝、あの殺人事件を訴え出るから、裁判官のところへ連れていってください。男がひとり殺されていたら、ぼくが正当防衛でやむなくやったことがわかるでしょう」
「わたしはすぐにお発ちになったほうがいいと思います」
「では、事件がぼくの話したようじゃないと思うのですか」
「いいえ、お話のとおりだとは思いますが、ともかくお発ちなさい。わたしにはこの事件がだれの差金かわかっているからで、とんでもないことになるかもしれませんよ」
「いや、なにも起こりやしませんよ。もしもすぐに発ったら、ぼくに罪があると思われるでしょう。この剣を大事にあずかっといてくださいよ。確かにぼくを殺そうとしたのです。こんどは人殺しのほうがふるえる番ですよ」
 私はねにいったが、かなり興奮していた。だが、あんな事件の後としては、わりに落ちついていた。もしも人をひとり殺したとしても――それはいまでも確かだと信じているが――私は受身で、自己防衛のために殺したのだった。だから、良心にとがめるところは少しもなかった。
 午前七時、だれかがドアをたたいた。あけにいくと、旅館の主人がひとりの士官を連れてはいってきた。その士官は私に書類をすべて差し出し、服を着て、いっしょに来いと命じた。そして、抵抗したら、部下を呼ぶとつけくわえた。
「ぼくは抵抗したいとも思わないし、その必要も感じません。しかし、だれの命令でぼくの書類を要求するのです」
「支配者の命令です。あやしいものがなかったら、お返しします」
「どこへ連れていくのです」
「要塞(ようさい)です。あなたはそこに監禁されるのです」


……
第百二十 八章[暗闇でおそわれ、相手を刺す]より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***