「カストロの尼」

スタンダール/宗左近訳

ドットブック 230KB/テキストファイル 187KB

500円

本書には「イタリア年代記」といわれるスタンダールの中短編作品群から、代表傑作中編「カストロの尼」をふくめて5編を収めてある。なかでも「カストロの尼」は最晩年の「パルムの僧院」口述筆記のあいだに書かれた作品で、『パルムの僧院』の舞台稽古ともいわれ、その簡潔で絵画的な構成によって傑作の呼び声が高い。「小説は伯爵夫人が徹夜して読むようなおもしろさをもたねばならぬ」という作者の自負の言葉がひびく。

スタンダール(1783〜1842)グノーブル生まれのフランスの作家。本名アンリ・ベール。母を早くに亡くし、厳格な弁護士の父親に教育された。17歳のとき、ナポレオンのイタリア遠征に参加、のち陸軍省にはいり、ナポレオン没落後は7年間ミラノに暮らした。7月革命後トリエステ領事、チヴィアヴェッキア領事を勤めた。この間、イタリアやパリで豪奢な社交生活を送りながら恋と執筆に明け暮れた。生涯に十人以上の女性と浮き名を流し、なかでもマチルド・ヴィスコンチーニへの報われない恋から生まれたという「恋愛論」は有名。代表作「赤と黒」「パルムの僧院」「エゴチスムの回想」など。

立ち読みフロア


 十六世紀イタリアの山賊たちは、いままで通俗劇《メロドラマ》にあまり登場しすぎたうえに、よく知りもしないであれこれ取り沙汰するものが多かったために、今日ではこの連中についておよそ間違った考えがゆきわたっている。おおむねこれらの山賊は、イタリア中世の共和国のあとをうけた残虐な政府の数々に対する「反対派」であったと言ってよいのである。新興の暴君はふつう前の共和国時代のもっとも富裕な市民であった。そして、民衆の歓心をかうために壮麗な寺院や美しい絵画で都市を飾ったのである。ラヴェンナのボレンティーニ家、ファエンツァのマンフレディ家、イモラのリアリオ家、ヴェローナのカーニ家、ポローニャのベンティヴォーリオ家、ミラノのヴィスコンティ家、そして、もっとも非好戦的でもっとも偽善的なフィレンツェのメーディチ家など、みなそうである。これらの暴君たちが恐怖におびえて命じた無数の毒殺や暗殺について、あえて記《しる》そうとした者はこれらの国の歴史家のなかに誰一人いなかった。あのものものしい歴史家たちは御用学者だったのである。これらの暴君はいずれも自分を憎んでいる共和主義者の一人一人を親しく識っていた(たとえば、トスカーナ公コージモはストロッツィ(メーディチ家に対する謀叛の首謀者)と面識があった)。しかも、これらの暴君の畿人もが暗殺に倒れている。この点をお考えいただきたい。そうすれば、この深い憎悪と不断の猜疑心《さいぎしん》がわかっていただけよう。この憎悪と猜疑心とが十六世紀のイタリア人にあれほどの才知と勇気を与え、芸術家たちにあれほどの天才を与えたのである。おわかりでもあろう、こうした根深い情念からは、セヴィニエ夫人時代の、いわゆる「名誉」などというおよそばかばかしい偏見は生まれなかった。この偏見は、とりわけ、生まれついた主君に家臣として仕え、ご婦人のお気にめさんがためには、おのれの生命を犠牲にするというていのものである。十六世紀フランスでは、男の働きと真価が発揮され、賞賛を得るには、戦場あるいは決闘での武勇による他はなかった。だが女は武勇を、特に大胆さを好むものであって、女が男の価値を決める最高審判者となった。ここに「女性崇拝《ギャラントリー》の気風」が生まれる。これがしだいにあらゆる情熱を、さらには恋愛をさえも衰徴させ、ついにはわれわれすべてを服従させる残醜な暴君、すなわち虚栄をのさばらせることになる。国王たちはこの虚栄を鼓吹した。きわめて当然のことである。勲章の威力はこうして生じた。
 イタリアでは、男はあらゆる種類の《ヽヽヽヽヽヽヽ》価値によって頭角をあらわした。偉大なる武功によってと同じく、古文書上の発見によっても、である。ペトラルカを見るがいい。一代の寵児《ちょうじ》である。つまり、十六世紀の女は武勲の誉《ほま》れたかい男を愛するのと同様に、いやそれ以上にギリシャ語に堪能な男を愛した。当時の人々の関心は情熱であって、女性崇拝《ギャラントリー》の風習ではない。イタリアとフランスの大きな違いはここにある。イタリアがラファエッロやジォルジョーネやティチアーノやコルレッジオのような人物を生んだのに対し、フランスがただ十六世紀のあれら勇猛な武将ばかりを生みだした理由はここにある。しかも、彼らはあれほど多くの敵を殺したにもかかわらず、今日ではまったく忘れ去られている。
 露骨な真実は、お許しねがおう。ともあれ、中世イタリアの小暴君がやむなく《ヽヽヽヽ》行なった残虐な復讐行為は、民心を山賊に結びつけたのであった。山賊が馬や麦や金など、つまりは彼らの生活に必要なすべてのものを盗むとき、人々は山賊を憎みもした。しかし、結局、民心は彼らの味方であった。なにか無謀なことをしでかして、一生に一度は、andar alla machia(イタリア語で、「森へ行く」の意)つまり森に逃れ、山賊に隠まわれるようなはめになった若者を、村の娘たちはだれよりも好ましく思ったものであった。
 今日でもなお、みな山賊に出くわすのを恐れてはいる。しかし、彼らが処刑されれば、だれもが彼らのために泣く。それというのも、なかなか小ざかしく嘲弄《からかい》好きなこの国民は、その筋の検閲を受けて出版されたものなどどれもばかにし、いつも名だたる山賊の生涯を賛美した短詩を愛誦していたからである。こうした物語のなかに彼らの見いだす英雄的なものが、下層階級のなかに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》いつも躍動している芸術家気質をとりこにするのである。おまけに、彼らは国家が特定の連中に与える賛辞にうんざりしている。だから、こうしたものでお上《かみ》の臭いのしないものは、まっすぐに彼らの胸に迫るのである。また忘れてはならないのは、イタリアにおける民衆の苦しみは、たとえ旅行者が十年この国に滞在したところで、けっして気づかないようなことがらによるものだということである。たとえば、十五年前、政府の賢明な処置によって山賊が根絶されるまでは、山賊の働きで小都市の「代官」たちの不正行為が罰せられるといったことも稀れではなかった。これら代官は独裁的な行政者ではあるが、その月俸はよくても二十スクーディそこそこで、いきおいその地方でもっとも権力ある一族の意のままになってしまう。こうしたしごく簡単な方法によって、その一族は自分の敵を制圧する。山賊たちはいつもこうした専制的な代官どもをこらしめるのに成功したわけではなかったが、少なくとも彼らを愚弄し、ものともしていなかった。これが機知に富むこの国民の目にはなみなみならぬことと映ったのである。一篇の風刺詩は彼らのあらゆる不幸を慰める。だからといって、彼らが侮辱を忘れたわけではけっしてない。イタリア人とフランス人の主要な違いの一つがここにもある。

……「カストロの尼」巻頭より


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