「管理人の飼い猫」

E・S・ガードナー/能島武文訳

ドットブック版 223KB/テキストファイル 181KB

500円

大富豪の別荘の管理人をしているアシュトンという老人が、主人の遺言書にもとづいて「飼い猫」を飼いつづけることができるかどうか相談に訪れる。メイスン の鋭い嗅覚は事件の匂いをかぎつける。行動派のメイスンは秘書デラを煙に巻き「ぼくの依頼主は飼い猫なのさ」と言いながら、独自の調査を開始する。メイスンものの代表作。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かしてペリイ・メイスンものの処女作「ビロードの爪」を発表、見せ場の法廷場面とハードボイルド・タッチで一躍人気作家に。メイスンものだけでも80作にのぼる。レイモンド・バー主演のテレビのメイスン・シリーズは有名。

立ち読みフロア
 刑事弁護士のペリイ・メイスンは、眉《まゆ》を寄せて、助手の一人のカール・ジャクスンの顔を見た。デスクの一隅から、膝《ひざ》を組み、開いたノートブックを前にして鉛筆を構えた、ペリイ・メイスンの秘書のデラ・ストリートが、おちついた、静かな目で、二人を見ていた。
 メイスンは、片手に、タイプライターで打った覚え書を持って、
「猫のことだって?」とたずねた。
「そうなんです、先生」と、ジャックスンがいった。「どうしても、じかに、先生にお目にかかりたいといってきかないんです。頭がおかしいんじゃないかと思うんですがね。こんな男に、ぐずぐず相手になっている時間なんかないんです」
「片足がびっこで、松葉杖をついてるとか、たしか、きみはいったようだったね」と、覚え書を見て、じっと考え込みながら、メイスンはいった。
「そうです。六十五歳ぐらいでしょうね。二年ほど前に、自動車事故にあったとかいってました。主人が、自動車を運転していたんだそうですが、アシュトン――というのが、猫のことで、先生にお目にかかりたいといっている男なんですが――その事故で、腰の骨を折って、右脚《みぎあし》の筋が切れたのだということです。主人のラクスターも、右脚の膝の上のところを折ったんだそうです。ラクスターというのは、若い男じゃなかったんですね。死んだときには、六十二だったとかいうんですが、右の脚は元どおりになおったということです。しかし、アシュトンの脚は、とうとう元どおりになおらなくて、それ以来、松葉杖をつく身になったのだそうです。
 ラクスターが遺言状の中で、管理人に対して特に気を使って、特別な条項をもうけておいたという理由の一端は、そんなところにあるのじゃないでしょうかね。主人は、金としては一文もアシュトンには遺贈はしなかったらしいんですが、遺産の受益者にある条件をもうけたらしいんで、受益者に、アシュトンが働けるあいだは、永久に管理人の仕事をつづけさせること、働けなくなったさいは、住居を別に与えてやること、そういう遺言状の条件だそうです」
 ペリイ・メイスンは、眉を寄せながら、「ちょっと珍しい遺言だね、ジャックスン」
 若い弁護士は、そのとおりですというようにうなずいて、「まったく珍しい遺言といえますね。このラクスターという人物も、弁護士で、孫が三人、後にいるんだそうですが、そのうちの、一人は、女の子で、遺言状からは完全に除外されているらしいんです。後の二人には、等分に財産を分けて遺贈しているのだということです」
「死んでどれくらいになるんだね?」
「二週間ほどだと思います」
「ラクスター……ラクスターと……なんか、新聞に、その人物のことが出てなかったかね? なんか火事のことを、その死に関連して読んだような気がするんだが、そうじゃなかったかね?」
「そうです、そのとおりです、先生、そのピーター・ラクスターです。けちな男だという評判でしてね、まったく変人だったんですね。この市内に邸宅を構えてはいたんですが、そこには住もうともしなかったらしいんです。そして、このアシュトンという男を管理人にして、管理をまかせていたんですね。ラクスター自身は、カルメンシタの田舎《いなか》に別荘を持っていて、そこに住んでいたんです。すると、ある晩、その家が火を出して、ラクスターが焼け死んでしまったんです。そのとき、その田舎の家には、三人の孫と召使が数人いたというんですが、その連中はみんな、逃げ出したんだそうです。アシュトンの話では、ラクスターの寝室の中とか、その近くからとか火が出たということなんですがね」
「その管理人も、そのときは、その田舎の家にいたんだね?」と、メイスンがたずねた。
「いいえ。かれは、この市内の邸宅に留守番をしていたということです」
「そして、孫たちは、いまは、そこに住んでいるんだね?」
「二人だけね――遺産を相続した二人。サムエル・C・ラクスターと、フランク・オーフレイが住んでいるんだそうです。遺産相続からのけ者になった孫娘のウィニフレッド・ラクスターというのだけは、いっしょに住んでいないのだそうです。どこにいるか、居所を知っている者もいないのだそうです」
「それで、そのアシュトンという男が、控え室で待ってるというんだね?」と、きらっと目を光らして、メイスンが問いをかけた。
「そうです。先生のほかには、誰にも会いたくないというんです」
「その特別に会いたいというのは、どんな問題なんだね?」
「孫のサム・ラクスターは、遺言状の条項どおり、アシュトンに、管理人の仕事をさせるということは認めたんですが、アシュトンが猫を家の中に飼うということは、遺言状にも書いてないというんですね。アシュトンじいさんは、大きなペルシア猫を飼っていましてね、とてもひどく可愛がっているんです。それで、ラクスターが、猫を追っ払ってしまうか、それとも毒殺するか、どっちかにしろと、アシュトンにいい渡したというんです。そんなことは、わたしでもさばけるんですが、ただアシュトンが、どうしても先生にお目にかかりたい、でなければ、どなたにも会いたくないといい張ってきかないんです。そんなことで、先生のおひまをつぶしたくないんですけど――ただ先生が、この事務所へ来る依頼人のことは、みんな知らせるようにしろ、わたしたちでかってに事件を扱ってはならんとおっしゃっているものですから」
 メイスンはうなずいて、いった。「そのとおりだ。ちょっと見ると取るに足らぬ事件だからといって、大事件にまで発展しないとは、誰にもいえないからね。忘れもしないが、フェンウィックが殺人事件の弁護をしているときのことだった。一人の男がかれの事務所へやって来て、ある傷害事件で、どうしてもかれに会いたいというんだ。フェンウィックは、その男を書記の方へまわそうとすると、男は、ひどく腹を立てて事務所を出て行ってしまったというんだ。ところが、それから二か月後、フェンウィックの依頼人が絞首刑になったときになって、その会いたいといって来た男が、実は、その殺人事件で検察側の証人になった男を、別の自動車事故がもとではじまった傷害事件で逮捕してくれと依頼に来たんだということが、フェンウィックにわかったんだ。もし、追い返さずに、フェンウィックが、その男に会って話していれば、その殺人事件が持ちあがったときに、その検察側の証人になった男が、殺人の現場にいるはずがなかったということが、フェンウィックにわかったのだよ」
 ジャックスンは、前にもその話を聞いて知ってはいたのだが、よく注意をそらさないようにして、うなずいた。アシュトン氏の件で、朝の打ち合わせの時間をすこし取りすぎたという気持を、ありありと見せるような口調で、かれは、「それじゃ、事件は引き受けられないと、そうアシュトン氏に申しましょうか?」
「金は持ってそうかね?」と、メイスンがたずねた。
「持ってそうにもありませんね。遺言で、管理人の職は保障されているでしょうが、住み込みで、ひと月五十ドルですからね」
「それで、老人なんだろう?」と、またメイスンがたずねた。
「かなりの年寄りで、偏屈《へんくつ》じいさんとでもいうんでしょうね」
「だけど、動物好きなんだろう」と、メイスンが、相手をたしなめるようにいった。
「自分の猫は、とても可愛がっているらしいんです、先生のおっしゃるのは、その猫のことなんでしょう」
 メイスンは、ゆっくりとうなずいて、いった。「うんっ、その猫のことだ」
 助手よりもずっと、メイスンの気持をよく知っているデラ・ストリートが、ほとんど形式張るということのないこのメイスンの事務所で働いている人間らしい、気やすい口調で、二人の会話に口を入れた。
「でも、殺人事件の公判をおすましになったばかりじゃありませんか、先生。どうして助手の方たちに、いろんな事件をまかせて、東洋への旅行にいらっしゃらないんですの? すこしは骨休めをなすったほうがいいじゃありませんか」
 メイスンは、きらっと目を光らせて、かの女の顔を見て、「それじゃ、いったいアシュトンの猫は、誰が面倒を見てやるんだい?」

……第一章より

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