「カタロニア讃歌」

ジョージ・オーウェル/高畠文夫訳

ドットブック 318KBテキストファイル 260KB

600円

1936年、スペインに成立した左翼系共和政府に対して、右翼勢力はフランコを指導者に反乱を企てた。独・伊のファシズム勢力はこの反乱をバックアップしたが、英・仏は不干渉政策をとった。これがスペイン内乱である。共和政府を支持したのはソ連と、各国から自発的に参加した義勇軍であった。当初記事を書くためスペインを訪れたオーウェルはこの義勇軍に一員として加わり、実際の戦場へ。彼がそこで見たものは……20世紀を代表するルポルタージュの記念碑的作品!

ジョージ・オーウェル(1903〜50) 英国の作家。税関吏の息子としてインドに生まれる。イートン校卒業後、警察官としてビルマに赴任、自国の植民地政策に疑問をおぼえ、退職して作家を志した。「パリ・ロンドンどん底生活」「ビルマの日々」で認められ、以後エッセイの書き手としても知られた。のちには社会主義に共感して、スペイン義勇軍に参加(「カタロニア讃歌」)、だが全体主義的傾向に対しては終始反対して「動物農場」「1984年」の諷刺・未来小説の傑作を著した。

立ち読みフロア


 義勇軍に入隊する前日、私はバルセロナのレーニン兵営で、イタリア人義勇兵がひとり、将校たちのすわったテーブルの前に立っているのを見かけた。二十五、六のたくましい顔つきの青年だった。髪の毛は赤みをおびた黄色で、がっしりした肩をもっていた。先のとがった革の帽子を、片方の眼がかくれるほどぐいと引き曲げてかぶっている。
 こちらから、あごを強く引いた横顔がみえる。彼は、将校のひとりがテーブルの上に広げた地図を、途方にくれたように顔をしかめながらじっと見つめているのだった。その顔は、なぜか私をひどく感動させた。それは、友だちのためなら喜んで人殺しもするし、命も投げ出す、といったタイプの男の顔――アナーキスト(無政府主義者)によくある、あのタイプの顔だった。もっとも、ひょっとするとこの男は共産主義者《コミュニスト》だったかもしれないが。率直さと残酷さ、それに、無学な連中が自分たちよりえらいと思っている人たちにみせる、あの痛ましいほどの尊敬の念のまじった顔だった。みたところ、奴《やっこ》さん、地図がチンプンカンプンなのらしい。どうやら、地図読みなんて頭を使う大した芸当とでも思いこんでいる様子である。なぜか知らないが、私がこんなにひと目で好きになってしまった人――好きになってしまった男《ヽ》、という意味だが――に出会ったのは、ほとんどそれが初めてだった。彼らがテーブルを囲んでしゃべっているうちに、何かのはずみで私が外国人であることがわかった。すると、そのイタリア人は顔をあげて早口できいた。
「イタリア人か《イタリアーノ》?」
 私はへたなスペイン語で答えた。「いや《ノウ》、イギリス人《イングレス》だ。君は《イ・トゥ》?」
「イタリア人だ《イタリアーノ》」
 われわれが部屋を出るとき、彼は部屋の向かい側からつかつかと歩いて来て、私の手をいきなりぎゅっと握りしめた。はじめて会った人にこんな愛情を感じるなんて、ふしぎだなあ! それこそ、まるで、彼の魂と私の魂が一瞬、言葉や伝統の障害を飛び越えてぶつかり合い、ぴったりとひとつにとけ合ったみたいだった。私は、彼のほうでも、同じような好意を私に感じてくれたものと思った。しかし、また、この第一印象を持ちつづけるためには、もう二度と彼に会ってはいけないこともわかっていた。そして、いうまでもないが、それっきり二度と彼に会わなかった。それが、スペインでよくあるつき合い方だった。
 このイタリア人義勇兵のことを書いたのは、彼が私の記憶に今もいきいきと残っているからである。私には、あのみすぼらしい制服とたけだけしいがどことなく悲愴な彼の顔つきが、あのころの独特な雰囲気を端的に象徴しているような気がするのだ。彼は、戦争のあの時期における私の思い出のすべてと、切っても切れないように結びついている――バルセロナの赤旗、みすぼらしい兵士たちを満載してのろのろと前線へ走っていくひょろ長い列車、鉄道線路から遠く離れたところにある戦火に荒廃した灰色の町々、山の中に作られた泥だらけの氷のように冷たい塹壕《ざんごう》、と。
 あれは、ペンをとっている今からかぞえて、まだ七か月とはたっていない一九三六年の十二月下旬のことだったのに、もうはるかかなたへ遠ざかった昔となってしまった。その後に起こったいろいろな事件のために、一九三五年も、そういえば一九〇五年も忘れさられてしまったが、あのころは、それよりもっと完全に忘れさられてしまっている。もともと私は、新聞記事でも書いてやろうか、というぐらいの気持ちでスペインへいったのだったが、ほとんどすぐさま義勇軍に入隊してしまった。それというのもあのころのあの雰囲気のもとでは、それ以外の行動はちょっと考えられない気がしたからである。アナーキストたちは、まだ事実上カタロニア地方を支配しており、革命は依然として活発に進行していた。革命当初からずっと現場にいれば、あるいは、十二月や一月にはもう革命の時期は終わりかけている、という気がしたのかもしれない。しかし、イギリスからまっすぐやって来たものにとっては、そのころのバルセロナの様相には、何かびっくりするような、圧倒されるようなものがあったのだ。
 労働者階級が支配者となっている町にいったのは、それがはじめてだった。多少とも大きいビルは、ほとんど全部が労働者によって占拠され、赤旗か、アナーキストの赤と黒の旗がたれ下げてあり、壁という壁には、ハンマーと鎌とか、いろいろな革命政党の頭文字《イニシャル》がところきらわず書きなぐってあった。教会はほとんど軒なみに破壊され、聖像は焼かれていた。教会は、あちこちで、労働者の集団による組織的な破壊活動にさらされているところだった。すべての商店や喫茶店《カフェー》には、共有化宣言の掲示があり、靴みがきすら共有化されて、その箱は赤と黒にぬり分けられていた。食堂の給仕も商店の売り子も、お客の顔をまともに見て、対等の応対をした。卑屈な言葉づかいはもちろん、あらたまったものの言い方さえ、一時はかげをひそめていた。「セニョール」とか「ドン」はおろか、「あなた《ウステー》」さえ使われなくなり、みんなお互いに「同志《コムラード》」とか「君《トゥ》」と呼び合い、「こんにちわ《ブエノス・ディアス》」のかわりに、「お元気で《サルド》!」と挨拶し合った。チップは法律で禁止された。エレベーター・ボーイにチップをやろうとして、ホテルの支配人にお説教を食わされるなんて、私にはほとんどはじめてのことだった。
 自家用車は一台もなかった。すべて徴発されていたのだ。市電やタクシーは全部、そのほかの交通機関も大部分が赤と黒にぬり分けられていた。あざやかな赤と青の色に燃え立つような革命のポスターが、壁にところきらわず貼ってあり、それとくらべると、わずかに残っている広告は、まるで泥をぬりたくったように見えた。行きかう人の流れがいつも絶えない、バルセロナの大動脈ともいうべき中央大通り、ランブラス通りを下っていくと、ラウドスピーカーが、昼からずっと夜ふけまで革命歌をがなり立てていた。しかし、とりわけ奇妙だったのは、町でみかける一般民衆の様子だった。外から見るかぎり、そこは実際に富裕階級というものがなくなってしまった町だった。少数の女性と外国人のほかは、「身なりのよい」人などただのひとりもいなかった。ほとんどすべての人が、粗末な労働者階級用の洋服か、義勇軍の制服の青い上っぱりか、その制服まがいのものを身につけていた。こうしたことは、どれもこれも奇妙で、しかも感動的だった。そこには、私になっとくできず、ある意味では首をかしげたくなるようなことも少なくはなかったけれども、これが、戦ってかち取る値打ちのある状態であることだけは、すぐにみてとった。そしてまた、事実は見たとおりである、と思いこみ、これこそほんとうに労働者国家で、ブルジョワはみんな、逃亡したか、殺されたか、あるいは進んで労働者側につくかしたのだな、と私は信じていた。ところが、あにはからんや、大多数の富裕なブルジョワたちは、当時、一時的にただひたすら鳴りをひそめ、プロレタリアに身をやつしているだけだったのだが、そこが私にはわからなかったのだ。

……巻頭より


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