「中央アジア探検記」

ヘディン/岩村忍訳

ドットブック版 196KB/テキストファイル 172KB

500円

ヘディンの探検旅行は、1890〜91年のペルシアと中央アジアの旅行に始まる。この時には、ペルシアから西トルキスタンのブハラ、サマルカンド、タシュケントなどを経て、東トルキスタンに入り、その西端のカシュガルに達した。93年には第2回の探検を試み、この時にはパミール高原、タリム盆地、北チベット、新疆省北東部を踏査した。このときの記録が98年にまとめられたThrough Asiaである。本訳書はこの書のカシュガル以降の分を訳出したもので、タクラマカン砂漠の横断で九死に一生をえた有名なエピソードが一つのクライマックスになっている。「さまよえる湖」ロプ・ノール地方に最初に足を踏みいれたのも、この時のことであった。

スウェン・ヘディン(1865〜1952)スウェーデンの探検家・地理学者。ベルリン大学で地理学をリヒトホーフェンに学んだ。1893〜1937年の間に5回にわたって中央アジアの探検を企てた。楼蘭の遺跡の発見、トランス・ヒマラヤ山脈の発見などともに、ロプ湖の周期的移動を確認する地理学上の画期的な業績をのこした。「中央アジア探検記」「シルクロード」「さまよえる湖」はヘディンの探検記を代表する3部作となっている。

立ち読みフロア
 四月二十三日。この日は酷暑であったが、ラクダは前日の休息で元気がつき、かくて我々は次の休憩の前に十七マイルを進んだ。最初は我々の道は湖水から南東に延び、馬の形によく似た小さな丘や台地の点々とする薄く草の生えている草原上の道であった。一時間半ほど進んだとき、砂の畦《うね》のある起伏地帯に入り、さらに十分程で相互に切れ目なく連結しあっている砂丘地に入った。砂丘の方向は北東から南西に向かい、その険しい方の側面はすべて南・南西および西に向かっていた。高さは二十フィートから二十五フィートでしばしばそれを越えるには困難なことがあった。一同はこの砂丘をヤーマン・クム(憎むべき砂)とかチョン・クム(大きい砂)とかまたイグイズ・クム(高い砂)とか呼び、その頂のことをべレス(狭い路)と称した。ここで我々は時々奇妙な砂丘の形成状態を見出した。すなわち砂の波が二本ぶつかるときには、一本は他の上に重なり、結局二倍の高さになっているのである。同様に巨大な砂の波が幾重にか積み重なるときには、その地には他の波から群を抜いて高いピラミッド形の砂丘ができ上がる。同様の現象はまた絶え間なく方向の変わる風によって二つの砂丘が交差するときにも生ずる。
 北北東から南南西に向かう我々の通路に直角に、我々の視界の範囲内のあらゆるものを超える高さの巨大な砂丘の嶺が横たわっていた。これらの巨大な砂丘の群れはおそらく隆起のある地面上に形成されたものであろう。ラクダがこの険しい斜面をいささかの不安もなしに確かな足取りで上るのは驚くべきものであった。かかる坂を我々が登坂するには大努力を要し、一歩踏み出すごとに一歩後ろに滑らざるを得ないであろう。砂丘の嶺は一帯の砂面よりはほとんど見えないほど少しずつ高くなっていて、常に相当に広い視界を保つことができた。行手に幾マイルとなく巨大な砂丘が連鎖し、微細な交差のかぎりなき砂漠の大洋が遥か東方にひろがっているこの光景に見入ったとき、なぜ私は恐怖で青ざめなかったのであろうか。それは恐らくは常に頭上で輝いていた幸運の星が今消え果ててしまうとは考えられなかったからであろうと思う。否、むしろ反対に私の眼にはこの荒涼たる砂漠の海は一つの蠱惑《こわく》的な美でさえあった。その深い沈黙、その防ぐものなき静寂に私は魅せられてしまった。それは巨大な荘厳な眺めであった。未知の熱望《デジデリアム・インコグニチ》が支配する魅力は、過去幾世紀の啓示をあばくために砂漠の王の城に入り、そして古代世界の伝説や物語にある埋もれた宝を発見する、という抵抗し得ざる蠱惑を私に投げ掛けていたのであった。私の信条は「勝つか負けるか」であった。私は躊躇することを知らず、また恐れを知らなかった。「進め、進め」と砂漠の風がささやいた。「進め、進め」とラクダの鈴が響いていた。目的地に達するためには千度も千歩を行く、しかし後退は一歩でも呪いあれ。

……「第七章 砂漠の呪詛」より


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