「シェリ」

ガブリエル・コレット/加藤民男訳

ドットブック版 172KB/テキストファイル 132KB

500円

シェリとは《可愛いひと》の意味で、女性が愛人の男性を呼ぶのに用いられる。したがって『シェリ』は、男性が主人公と思われそうだが、むしろ女性のレアの方により多く比重がかかっている。まるで自分の子供のように愛していた若い男から、不意打ちをくって、これまで経験したことのないような恋の喜びをおぼえながら、あきらめざるをえないレアの哀切な心情……6年後に書かれた『シェリの最後』とともに、コレットの最高傑作といわれる。

ガブリエル・コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
「レア、僕にこれおくれよ、きみのこの真珠の首飾り。ねえ、いいだろう、レア? きみの首飾り僕におくれよ」
 薄闇の中に甲冑のように光っている錬鉄と彫りのある銅でできた大きなベッドからは、なんの返事もかえってこなかった。
「僕にくれないわけはないよね、きみのこの首飾り。きみと同じくらいこれは僕によく似合うんだ。それどころか、もっとピッタリなんだぜ!」
 首飾りの留め金のカチッと鳴る音にベッドのレースがゆれ動き、手首のほっそりした見事な二本のむきだしの腕が美しい手をだらんともたげた。
「よしてよ、シェリ。あんたもういい加減いじりまわしたじゃない、その首飾り」
「面白いんだよ、僕……。僕にこれを盗(と)られやしないかって心配なのかい?」
 陽光の刺しとおったバラ色のカーテンを背にして、彼の姿は燃えさかる地獄の大釜をバックに踊る愛らしい悪魔さながら、黒々としたシルエットを描いてちらついていた。だがベッドの方に身をひくと、そのシルエットも絹のパジャマから鹿皮のスリッパの先までふたたびもとの真白な色にもどった。
「心配なんかしていないわ」とベッドの中から穏やかな低い声が答えた。「でも、あんた首飾りの糸を駄目にしてしまうわ。その真珠は重いんだから」
「たしかに重いな」と彼は慎重な声でつぶやいた。「これをくれた男はきみを軽く見ていなかったわけだ」
 彼は窓と窓の間の壁に嵌めこまれた姿見のまえに立って、そこにうつしだされた実に美しい、若さのみなぎった自分の姿に見入っていた。背は高からず低からず、髪は鶫(つぐみ)の羽毛に似てやや青味を帯びていた。パジャマの前をはだけると、楯のようにぐっと丸く隆起したくすんだ色の頑丈な胸がむきだしになり、バラ色の同じ光がその歯、黒っぽい目の白目の部分、首飾りの真珠にあたってキラリと輝いた。
「その首飾りはずしてよ」と女の声がまたせがんだ。「あんた、私のいうことを聞いているの?」
 鏡の中の自分の姿の前に突っ立ったまま、青年はごく低い声で笑った。
「ええ、ええ、聞いていますとも。僕にこれを取られやしないかって心配していることぐらいよく分かっていますよだ!」
「ちがうわよ。でも、もし私がそれをあげるといったら、あんたは平気で受けとるでしょうね」
 男はいきなりベッドに走り寄り、体を丸めて中に飛びこんだ。
「もちろんだとも! この僕はね世間の常識の上をいっているんだ。僕はね、女からネクタイ・ピンの真珠を一粒とか、カフス・ボタンに二粒ならもらってもいいが、相手が五十粒もくれるとなると侮辱されたなんて考えるような男を馬鹿な奴だと思っているんだよ!」
「四十九粒よ」
「四十九粒さ。幾粒あるかぐらい僕だって知っているさ。これが僕に似合わないっていったらどうだい? 僕が醜男(ぶおとこ)だっていったらどうだい?」
 彼は横になっている女の上に顔を傾け、ひどく小さな歯と唇の濡れた裏側をのぞかせながら、挑みかかるような笑いを浴びせた。レアはベッドの上に起き直った。

……「冒頭」より


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