「地名の研究」

柳田国男著

ドットブック版 478KB/テキストファイル 212KB

600円

この本は各地の地名のいわれ、その意味を、民俗学的な独自の立場から明らかにしようとした先駆的名著である。その名の由来を知りたくなるような地名は、われわれの身近に数多くある。著者はそうした身近な小地名を取り上げ、類似のものを全国から広範囲に拾い上げて考究する。山川草木、原野、沼沢などの地勢由来のもの、農業、漁業、海運、特殊な職業、田制、信仰、神事芸能などの土地の利用由来のものなど、多種多様な地名の由来が人の暮らしとの関連で明らかにされる。「久木」「真間」「強羅」「反町」「堀ノ内」「根岸」「八景坂」「新潟」…どれをとっても、興味深く、地名が文化遺産であることが納得される。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。  

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 三九 根岸および根小屋

 東京と横浜とに一つずつある根岸という地名は、また関東から奥羽へかけて数多い地名である。『地名辞書』には前代の地誌の説をうけて、山の根岸の義なるべし、と書いてある。またそれよりほかの解しようもない。目撃または地図によって自分の検した数か所の地形もこれに合致している。ただし何ゆえにこの地名が、はなはだ多く発生したかについては、なお考えてみる必要がある。岸はもと水際のことであるのを、丘の麓にまで準用したのは、方言かあるいは転訛(てんか)である。すなわち特にある地方またはある時代の風であったと見ねばならぬ。そうして前者としてはあまりに分布が広い。
 一方には農村の経済史も、こんな地名を持つ部落の起立が比較的新しいものであることを傍証(ぼうしょう)している。その原由が少なくも二つある。第一には村が高い所から下りてくる傾向である。子供がだんだん増加してサコやハザマの田だけでは米が不足する。幸い今までの沼地にいくぶんか土が加わり水が退いてきたから、畔を張ってこれをしつけることにする。すなわち根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。何となればかかる地点が経済上何らかの意味をもって後、はじめて命名の必要が生じたはずだからである。
 第二の事情は荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自、館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫とを手近くその保護のもとにおいたことである。すなわち次にいわんとする根小屋(ねごや)とともに、根岸もまた、ただの丘陵の根ではなく、ある武家の占拠したタテの地の根ぎわであったらしい。根小屋の小屋は、屋形または殿に対する小家で、すなわち領主配下の農民群のことかと思う。同じく関東の地名に、

 下野那須郡那珂(なか)村大字三輪字禰柄蒔(ねがらまき)
 同 同  下江川村大字熊田字ネガラ町
 常陸多賀郡華川村大字花園字根加良満里
 下総海上郡椎柴村大字塚本字根柄町
 同 香取郡神代村大字小貝野字ネガラミ
 武蔵都筑郡新田村大字新羽(にっぱ)小字根久留見
 同 南多摩郡加住村大字北大沢字根搦(ねがらみ)
 相模中郡南秦野(みなみはだの)村大字平沢字根搦

などというのは、たぶんまた岡の麓にある民家の地であろう。カラマルという方言は『万葉集』巻二十の武蔵の防人(さきもり)歌にも見えている。岡に沿うことをカラムまたはカラマクともいったと思われる。城の二つの入口を大手・搦手(からめて)と呼ぶことは、これから説明がつく。古くはこれを遠戸(とおと)・近戸(ちかと)といっている。正面は平坦であるから、門をなるだけ遠方に置き、外人の進入にひまをとらせる。いわゆる遠侍・遠厩(とおうまや)はその方面を守らせたものである。他の一方には裏口の崖(がけ)を斜めに、樹隠れの嶮岨(けんそ)をくだって出る路が近戸である。根搦へおりて行くから、すなわち搦手というのであろう。これは古い世からの風習のままらしく思われる。
 根小屋が城下の村であることは、各地の根小屋村に必ず城山をひかえているほかに、まだ多くの証拠がある。相模津久井郡串川村の大字根小屋について『新編相模風土記』には「按ずるに根小屋はすべて番手根城など建つる所の通称にて往々にしてあり、中頃津久井城ありてよりこの村の名は起りしなるべし」とある。駿河駿東(すんとう)郡浮島村の大字根古屋については、『新風土記』に「北条早雲の居住せし興国寺城この地に在り」とある。これだけでは城址のことか、城址の麓のことかよくわからぬが、同じ『新風土記』に駿州安倍郡久能(くのう)村大字根古屋を説明して「根古屋は城下の在家のことなるべし、久能城の下に在れば斯(か)く謂ふならん」と見えている。『上総町村誌』の夷隅(いすみ)郡長者町の条に、この町から今の上瀑(かみたき)村へかけての八大字(七町一村)は、相連なって一つの市街地である。もと大多喜城の根古屋と称し、城下町であったとある。
 武蔵の根古屋については、『新編武蔵風土記稿』の都筑郡新羽村の条に「この村を一に根古屋庄と云ふ、小机古塁に近ければにや、根古屋と云ふは塁砦(るいさい)の通称なりと云ふ」とあるが、一方に北埼玉郡騎西(きさい)町の条には「武家屋敷の集まりし所を根小屋と云ふ」とあり、同書に引用した南多摩郡浅川村大字上椚田(かみくぬぎだ)原宿飯繩神社の文書には「八王寺御根小屋に候の間薬師より山内の山の竹木伐(き)るにおいては曲事(くせごと)たるべきの旨、その時分より仰せ付けらるゝの処云々」とあり、比企(ひき)郡松山町岩崎氏の古文書にも「松山根小屋の足軽衆云々」と見えている。さらに根小屋の語が遠く九州で用いられた一例がある。『肥後国志』巻十三に採録した響原(ひびきはら)合戦覚書に相良(さがら)家の軍評定(いくさひょうじょう)のことを記して「いよいよ覚悟を究めたる籠城ならば、宿城、根小屋を焼き払ひ、そのほか近辺の在家をも自焼するは籠城の法なるに云々」とある。
 右の宿城と根小屋との区別のことは、『金沢江戸道中記』の上州倉賀野駅根小屋城跡のところにこう書いている。曰(いわ)く「根小屋とは山城に町の附きたるを謂ふ。宿城とは平城に町の附きたるを謂ふ」云々。根小屋という地名のもとの意味はさだめてこのとおりであろうが、後には単に城に保護せらるる所というまでになったようだ。たとえば江戸城のごとき半ば平構えの城にも、やはり一つの根小屋があった。山林局の宮崎君の話に、西河岸から北竜閑橋の堀筋の辺までを、以前は根小屋と称えたものらしい。あの辺に大工のカンナに使う樫(かし)の木のごとき、いろいろの器具用の材木を売る商人が昔から住んでいて、その取り扱う商品をば今でも根小屋物と呼んでいるという。

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