「中国切手殺人事件」

エラリー・クイーン/石川年訳

ドットブック版 258KB/テキストファイル 186KB

600円

宝石と切手のコレクターで出版社の経営者でもあるドナルド・カークは、ニューヨークの中心街のチャンセラー・ホテルに事務所をもっていた。ある日の夕刻、中年太りのさえない小男がたずねてくる。カークは留守だったので、秘書のオズボーンはカークの事務室で待つように案内する。用件を聞いても、男は「内密の用件」としか答えない。約一時間後、カークはたまたま階下で出会ったエラリーを連れて帰ってくる。秘書の話を聞いて二人が事務室に行くと、男は脳天を割られて死んでいた。そして部屋にあるあらゆる物が動かされて「あべこべ」になっていた。中国福州で発行された「エラー切手」にからむ密室殺人!
立ち読みフロア
 ディヴァシー嬢は、こっぴどく、大声でがなりつけられて、カーク博士の書斎から逃げ出した。そして、老博士の部屋の外の廊下に、じっと立っていた。頬がもえ、やっかい払いをした両手でのりをつけた白衣の乱れた胸元をおさえていた。かんかんになった七十おやじが、ガラパゴス島の大亀のように、車椅子で部屋の中をよちよち動きまわりながら、白いキャップをつけている彼女の頭に、古代ヘブライ語、古代ラテン語、フランス語、英語をごちゃまぜにした呪いの言葉を、ねちっこくがみがみあびせているのが聞こえて来た。
「化石おやじ」と、ディヴァシー嬢はいまいましそうに考えた。「まるで――まるで百科事典のお化けと暮らしているようだ」
 カーク博士は、ドアの向こうで、ゼウスの雷のようにわめきつづけていた。「もどって来るなよ。いいな!」博士は、その学のある頭にいっぱいつまっている奇妙な国語の俗語で、他にもいろいろなことをわめきちらした。もし、ディヴァシー嬢が、つまりその博学多才だったら、きっと、かんかんに怒り出すようなことだった。
「いやらしいこと!」と、彼女はドアをにらみながら、吐きすてた。だが手ごたえはなかった。すくなくとも、まともな手ごたえはなかった。
 薄気味の悪いくすくす笑いと、だれかの墓から掘り出したようなきたない本をぱたりと閉じる音に対してなにも言うことはないではないかと、ディヴァシー嬢はあっけにとられながら考えていた。本当に手のつけられないおじいちゃんだわ――と、危うく口に出しかけた。事実、もう少しで、声になりそうだった。だが、つつしみ深く、やっとこらえて、青ざめた唇をとじたのである。自分で着がえたいならそうさせとこう。どっちみち、年寄りの着がえをさせるのが好きなほうではなかった。……ディヴァシー嬢はしばらくためらって立っていた。それから上気したままいかにも職業看護婦らしいしっかりと落ち着いた足どりで、廊下をさがって行った。
 チャンセラー・ホテルの二十二階は、きびしい規則で、修道院のような静けさが守られていた。その静けさがディヴァシー嬢の、ささくれた心をしずめた。痛風とリューマチにとっつかれて――当然のむくいでいい気味だが――気むずかしい小言いいの、もうろくじいさんを看護するのも、ふたつのとくがあるからだと、彼女は考えた。そのひとつは、息子のドナルド・カーク青年が、父親の面倒をみるというむずかしい仕事に対して、たっぷり給料を払ってくれることだったし、いまひとつは、カーク家が、ニューヨーク市の中心の豪華なホテルに住っているということだった。お金と地の利が、他の多くの不利益をつぐなってくれると、彼女は病的な満足感で信じこんでいた。メーシーも、ギンベルも、その他のデパートも、すぐ目の前だし、映画館も劇場も遊び場もすぐおとなりなのだ。……そうだ、辛抱(しんぼう)辛抱。人生はつらいが、それだけのものはあると言うわけだ。
 時にはやり切れないこともなくはなかった。今までにも、どれほどいやな連中の気まぐれに耐え忍んで来たか、神のみぞ知るである。そしてカーク老博士も手のつけられないおじいちゃんだ。機嫌のとりようがない。人間なんだから、ときには、機嫌がよくて、思いやりがあり、「すまないなあ」とか、「ありがとう」とか言いそうなものだと思うだろうが、どっこいこの、おいぼれベルゼブル〔マタイ伝に出てくる悪魔〕には、そんなものはさらになしなのだ。まさに暴君そのものだ。博士の目はひとをおびえ上らせ、その白髪は、頭からできるだけ遠ざかろうとしているかのように先の先までぴーんと突っ立っているのだ。食事をさせようとすれば食べないし、さす(ヽヽ)ろうとすればその手を払いのけて、靴をなげつける。アンジニ医師が歩いてはいけないと言えば、部屋の中をよちよち歩きまわるし、運動をしなさいと言えば、てこでも動かない。たったひとつのとりえは、紫色のしわ鼻を本に埋めているときはおとなしいというだけである。

……《一 ディヴァシー嬢の小唄》より


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