「毒入りチョコレート事件」

アンソニー・バークレー/加島祥造訳

ドットブック版 198KB/テキストファイル 162KB

500円

不可解な殺人事件の解決に乗りだす「犯罪研究サークル」の6人の会員たち。それぞれが得意にするアプローチに頼って、推理をおしすすめるが…本格推理の種々の手法を縦横に駆使して読者をうならせる傑作。高村薫氏いわく「バークレーは名投手のピッチングのように、速球、変化球、内角外角、高さ低さを見事に使い分け、向かってきます」「解決場面だけが続くようなミステリーがあったら…と空想する人にはたまらない、夢のような本です」

アンソニー・バークレー(1893〜1970)英国生まれ。本名はA・B・コックス。「パンチ」誌にユーモラスな雑文を書いたりしたあと、ミステリ執筆に転向、「毒入りチョコレート事件」(1929)の知的ユーモアの利いた作風で高い評価を得た。その一方でフランシス・アイルズの筆名で「殺意」「犯行以前」などの心理サスペンスに重きをおいたミステリも発表し、こちらでも有名になった。バークレー名義の代表作には他に「試行錯誤」「第二の銃声」などがある。

立ち読みフロア

 ロジャー・シェリンガムは自分の前にある古いブランデーをすすってから、椅子《いす》の背にもたれた。彼は一同を見わたす上《かみ》座に座っていた。
 その耳に、たばこのもやのなかから、幾つもの熱心な声がとどいた。どれもみな殺人や毒薬や不慮の死などについて陽気にしゃべっている。それも当然であった、これこそロジャーの造った世界だからだ――これは彼が創設し、組織し、人を集め、主催している『犯罪研究サークル』なのだ。実際、五ヵ月前の第一回会合において、満票でこのサークルの主宰者に選ばれた時、彼はじつに誇らしい気分になったものであった。ずっと昔、天使の姿をした出版社が自分の最初の小説を出版すると言ってくれた時の、あのうれしかった瞬間にも劣らぬ気持だった。
 彼はロンドン警視庁のモレスビイ警部の方に向いた。警部は今夜、主賓として招かれてその右に坐っていたが、やや固くなって、ひどく大きな葉巻をいじっていた。
「正直いってだよ、モレスビイ、君のところをばかにするわけではないが、この部屋には全く犯罪捜査の天才が集まっているんだ。天才といっても丹念に足で捜して歩く天才ではなくて、まあ、直感的天才といったところだが、とにかくパリ警察を別にすれば世界のどこにも見あたらぬ才能の集まりだと思うね」
「そうお考えですか、シェリンガムさん?」とモレスビイ警部は平気で言った。モレスビイは元来、変った意見に寛大な人物であった。「なるほど」そう言って、自分の葉巻の火のついた方をいじった。あまり長い葉巻だったから吸ってみたくらいでは火がついたかどうか見当もつかなかったのである。
 ロジャーの言葉もしかし単なる空威張《からいば》りではなかった。この『犯罪研究サークル』に入会するには、ただ殺人事件が好きだからというのではだめで、入会希望者は犯罪研究に身を打ちこむほどの熱意を持っていると証明してみせねばならぬ。
 たとえば犯罪科学としての捜査法に詳《くわ》しいうえに、犯罪心理《しんり》の分野にも深い興味を持ち、どんなつまらぬ古い事件も即座に思い出せる知識を持たねばならない。いや、もっと積極的な資格が必要で、入会志願者はみな、よい頭脳をもち、しかもそれを使いうる人でなければならぬ。それを示すために、会員たちの選んだ題目に従って小論文を書き、会長に提出する、会長は考慮する価値ありと認めた論文を会員一同に回覧し、そのうえで一同の投票によって志願者の入会を認めるのであるが、一票でも否と書かれたものがあれば、入会は拒絶される規定になっていた。
 会員は十三人まで許すと内規してあるが、現在まで試問に通過したのは六人しかいない、そして今夜の例会には全員が出席していたのである。まず有名な弁護士、それよりは有名といえぬ劇作家、もっと有名になるべきだがまだそれほどでない秀《すぐ》れた女流小説家、現存する探偵小説家の中では最も頭のきれる、(ただし、最も人づき合いのよいとは言えぬ)作家、ロジャー・シェリンガム自身、それからアムブローズ・チタウィク氏、この人はまるで有名ではないごく平凡な中年男で、会員がこんな男を入会させたと驚くより以上に、自身がこの会にはいれたことを驚いている人物なのである。
 それでチタウィク氏を除くとしても、とにかくこれだけの人物を集めた以上、その主宰者が誇らしい気持になるのは当然であろう。今夜のロジャーは鼻が高かった、いやそればかりでなく、少し興奮もしていたのである、というのはこれから皆を驚かすつもりだからで――元来、人を驚かすのは愉快なことにきまっている。今や彼はその目的のもとに立ちあがったのであった。「会員諸君」一同がグラスや灰皿でテーブルを叩いて歓迎する音が静まると、彼は重々しく言った。「皆さんに委任されました会長の権限において、私が今夜の例会の進行順序を少し変更しましたことを許していただきたく存じます。すでにご存じと思いますが、こちらがモレスビイ警部であります。ロンドン警視庁からこの会に最初に出席された方として、われわれは心から歓迎いたしたく思います」――さらにテーブルを叩く音――「こんな場合、普通の警部さんですと、今夜の御馳走《ごちそう》と豊じゅんなる酒に大いにくつろぎ、その結果として、新聞記者などには洩らさぬような経験談をわれわれに話してくれる所でしょう」さらに、前よりもやかましくテーブルを叩く音。
 ロジャーはブドー酒をひと口すすって元気をつけ、また言葉をつづけた。「ところで皆さん、私はモレスビイ警部とはかなり親しくしております。そしてこれまでも幾度か、気軽に口を開かせようと試みたことがあるのですが、どうもいまだ一度たりと成功したことがありません。ですから、この会員の方々がいかに巧みに警部を釣りだそうとしても、どうも警部は明日の新聞に公表するような事実のほか、まず話してはくれないだろう、とまあ、私は考えております。皆さん、モレスビイ警部はまったくの堅人《かたじん》なのであります。
 そこで私は今夜の趣向を少し変えてみようと思うのですが、この考えはきっと皆さんの興味を呼ぶだろうと信じて疑いません。なかなか新奇で愉快な考えなのですから」ロジャーはちょっと口をとじ、好奇心にかられはじめた一同に微笑をおくった。モレスビイ警部は耳のつけ根を赤らめて、なお葉巻を握りしめている。
 ロジャーが言った。「実はグラハム・ベンディクス氏に関する一件なのであります」すると興味をみせてざわめく声。「そう言うより」と彼は前よりゆっくり訂正して、「むしろ同氏の夫人に関した一件だ、と申したほうがよろしいでしょう」ざわめきは、興味が増すにつれてかえって静まりかえった。

……
第一章巻頭

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