「村井長庵」(勧善懲悪覗機関)
かんぜんちょうあくのぞきのからくり

河竹黙阿弥作/河竹登志夫校訂

エキスパンドブック 253KB/ドットブック 223KB/テキストファイル 134KB

400円

めいを吉原へ売りとばし、妹むこを殺し、その連れあいの実の妹をまた人に殺させ、浪人に罪をなすりつけて獄死させる……医者でかたりで殺人犯――良心のかけらもない根っからの極悪人の村井長庵。そこには後悔の色もなく良心の呵責もない。しかもその動機が、怨恨とか、やむにやまれぬ情況とかいうのではなく、まったく金がほしいというだけの単純動機で、しかも知能的。芝、麹町、神田、浅草と、江戸の風物誌を背景に、刹那頽廃の世相人情を描いた幕末生世話(きぜわ)の代表作。
立ち読みフロア
【重兵】 こう大降《おおぶり》になろうとは思わないから出て来たが、菅笠《すげがさ》では凌《しの》げない。それにまた真《ま》っ暗《くら》でまだ明けそうもない様子、最前《さいぜん》打ったは六ツではなく七ツの鐘であったと見える。早く夜が明けてくれゝばよい、こんな困った事はない。(ト言いながら平舞台へ下りる、この時本釣鐘の七ツを打つ)おゝ幸いに鐘がなる、何時《なんどき》だろう、算《かぞ》えてみよう。(ト指を折り数をかぞえて)や、今鳴る鐘はありゃ七ツじゃ、そうして見ると麹町でさっき聞いたのは八ツだとみえる、まだ六ツまでには一刻《とき》ある。はてとんだ事をしたなあ。
(ト思案の思入れ、後ろより長庵窺《うかが》い出て、一腰《こし》を抜き提灯を切り落とす、重兵衛ヤアとびっくりするところを長庵後ろから切り下げる)
やあ人殺し、人殺し人殺し。
(ト菅笠《すげがさ》切れて逃げ廻る、追い廻して斬りつけ斬りつけ、雨車にて立ち廻り、重兵衛の口を押え、脇腹へ突っ込む、糊紅《のりべに》になり、重兵衛立身《たちみ》にて苦しみ、ばったり倒れるを乗り掛かって止《とゞ》めをさし、白刃《しらば》の血を拭《ぬぐ》い鞘《さや》へ納《おさ》め、懐中を探《さぐ》り胴巻を引き出し、探《さぐ》り見てにったり思入れ)
【長庵】 ちょうど時刻も寅《とら》の刻《こく》、千里一飛《ひととび》闇雲に後《あと》をつけたる暗まぎれ、篠突《しのつ》く雨に往来のないを幸いばっさりと夜網《よあみ》にあらぬ殺生《せっしよう》も、わずか五十に足らねえ金、人の命も五十年、長い浮世を長袖《ながそで》の小袖ぐるみで交際《つきあい》も、丸い頭を看板に医者というのが身の一徳、しかし十徳《じっとく》を着る長棒《ながぼう》にしょせん出世の出来ねえのは、言わずと知れた藪育《やぶそだ》ち、蚊よりもひどく人の血を吸い取る悪事の配剤《はいざい》は数年馴《すねんな》れたるわが匙先《さじさき》、現在妹の亭主ゆえ言わば義理ある弟だが、金と聞いては見逃されず、手荒《てあら》い療治《りょうじ》の血まぶれ仕事、酷《むご》い殺しも金ゆえだ、恨みがあるなら金に言え。どれ、そろそろ出かけようか。(ト傘を捜し取って)あゝつめてえ、びっしょり濡れた、いや濡れぬ先こそ露をも厭《いと》え、この傘《からかさ》を捨てゝおきゃあ殺したものは、
(ト言いかけ、あたりへ思入れあって、傘をほうり出すを道具替わりの知らせ)
いゝ智恵だなあ。
(ト雨車、早き合方にて、この道具廻る)

 本舞台一面の平舞台、上手へ寄せ黒渋塗《くろしぶぬり》りの冠木門《かぶきもん》、左右黒塀、上手開帳《かいちょう》の立札《たてふだ》、下手茶見世、揚縁《あげえん》をあげ、雨戸締《あまどし》まりある家体《やたい》。正面の門片扉《かたとびら》あけ掛けてある。下手に縫《ぬ》いぐるみの犬寝ている、すべて麹町平河天神裏門前の体《てい》。雨車合方にて道具とまる。

(ト掘《ほり》の内朝参《うちあさまい》りの仕出《しだ》し三人、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》、大黒傘をさし、長提灯を持ち出て来り、まだ残暑が暑いから朝参りに行くというせりふあって、花道へはいる。ト上手より以前の長庵、ずっぷり濡れて早足《はやあし》に出て来り)
【長庵】 えゝ意地悪く降る雨だ、傘がないからぐっすり濡れたが、こゝまで来りゃあ安心だ。(ト言いながら袂の水を絞り)これでよっぽど軽くなった。
(トこの声を聞き犬起き上がり、長庵を見て、ワンワンワンと噛みつくように吠えるゆえ)
【長庵】 シッシッ、えゝこの畜生《ちくしょう》め、吠えやがるな(ト追い廻すが、犬吠えるゆえ持てあまし)うぬも序《ついで》に。(ト手早く脇差を抜き、斬りつける。犬、縫いぐるみ裂けて血綿《ちわた》出で、ワンワンとくるくる廻って倒れる)こいつも啼《な》かざあ殺されめえに。
(ト手拭に血を拭い鞘《さや》へ納め、身拵《みごしら》えする。このうち門の内より貝坂《かいざか》の忠蔵、半合羽《はんがっぱ》尻端折り、一本差し、足駄《あしだ》がけ、渋蛇《しぶじゃ》の目《め》の傘《かさ》をさし、小田原提灯を提《さ》げ、朝参りの帰りにて何心なく出て来て、双方舞台にて行き合い、思わず顔を見合わせ、長庵花道へ足早に行くを、忠蔵思入れあって提灯を差し出し)
【忠蔵】 はて見たような。
(ト長庵花道にて)
【長庵】 えい。
(ト礫《つぶて》を打ち、提灯をばったりと落とす、これを柝《き》の頭《かしら》、長庵下《した》にいる)
【忠蔵】 あゝ白《しら》んで来たか。
(ト空を見上げてこなし、烏笛早《からすぶえはや》き合方にて)
ひょうし幕
(ト幕引きつけると、長庵立ちあがり、後を見返り、早き合方、寺鐘《てらがね》にて、足早に花道へはいる)

……序幕 赤羽根橋重兵衛殺しの場

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