「螺旋階段」

M・R・ラインハート/沢村灌訳

ドットブック版 332KB/テキストファイル 186KB

600円

亡き兄の二人の遺児をひきとって育て上げ、肩の荷をおろしたレイチェルは、郊外の別荘でひと夏を過ごすことにする。だが、静かな田舎に安らぎを求めた彼女を待っていたのは恐ろしい事件の連鎖であった。到着早々、不気味な物音や奇怪な人影に心を騒がされ、子供達の到着にほっとしたのも束の間、別荘の持ち主の息子が螺旋階段の下に射殺体で発見される!……アメリカで国民的な人気を得た女流作家の代表作であり、心理描写でサスペンスの新生面を開いた古典的名作。

M・R・ラインハート(1876〜1958)ピッツバーグ生まれのアメリカの女性作家で、フルネームはメアリー・ロバーツ・ラインハート。ミシンの行商人の家に生まれ、看護婦養成学校卒。苦しい家計を助けるためペンをとりはじめ、1908年に発表した「螺旋階段」で一躍人気作家となった。「アメリカのクリスティ」ともよばれるサスペンスの第一人者。

立ち読みフロア
一 田舎に家を借りる

 このお話が語るのは、ある中年の独身女がいささか狂いだして、なにより大切にしていた市内の家を棄て、田舎でひと夏すごそうと家具つきの屋敷を借りるが、あの、新聞と探偵社を商売繁昌と悦(えつ)に入らせる謎めいた犯罪に巻きこまれていくいきさつである。

 それまで二十年私はまことに快適に暮らしてきた。二十年間、春になると窓辺の植木鉢にいっぱい花を咲かせ、カーペットを片づけては日除(ひよ)けを巻き上げ、テーブルや椅子にはブラウンの亜麻織(リネン)のカヴァーを掛けてきた。おなじだけの数の夏、いってらっしゃいとお友だちに声をかけて、みなさんがいつもの汗まみれの避暑旅行に発(た)っていくのを見送ったあとは、閑散とした街の静けさを堪能(たんのう)してきた。市内では日に三度も郵便物が配達され、給水も屋根に取りつけた水槽に頼らなくてすむのだ。
 ところが、そのあと狂気が私にとりついてしまった。サニーサイドですごした、あの数カ月をふり返ると、われながら、よくぞ生きのびたものだと感心してしまう。ほんとのところ、あのときの苦しい体験の後遺症がいまだにのこっている。髪がすっかり白くなってしまったのだ。きのうも家政婦のリディが、リンス液に青味剤をすこし垂らしたら黄ばんだ白髪が銀色に輝きますよなどと言いだすので、あの体験を思い出してしまった。私はいやなことを指摘された腹いせに、こっぴどくやり返してやった。
「とんでもない、息のあるうちは青味剤など使うもんですか、糊(のり)もごめんだね」
 あの怖いひと夏からこっち意気地(いくじ)がなくなってしまったとリディは嘆いているけれど、わかったものじゃない。まだまだしゃんとしている。でも、リディがめそめそしているときは、ただひと言、サニーサイドにお戻りと言えば十分。リディはびくっとして、ことさら明るく振舞おうとする。このことからも、サニーサイドでのひと夏が上首尾どころではなかったと、ご判断いただけるだろう。
 新聞の記事はおよそ穴だらけで、事実をねじ曲げているところもある――ある新聞がたった一度私のことを取り上げていたけれど、それも事件当時の借家人としてだけだった――そこで自分が知ってることをのこらず語っておくのが私の義務と思うわけだ。探偵のジェイミスンも、あなたがいなければお手上げだったなどと言いながら、活字になったものでは私の手柄などまるで問題にしていない。
 話をはじめるにあたって、何年か、厳密(げんみつ)には十三年さかのぼらなくてはならない。そのころ兄が亡くなって、二人の子どもが私の手もとにのこされた。当時ホールシーが十一歳、ガートルードは七歳だった。母親としての全責任がいきなり私に押しつけられた。母親という職務をまっとうするには、まさにわが子が生きる年月をそっくり要するものだ。子牛を抱き上げることから始まり、成牛を肩にかついで歩むことによって終わった男のばあいのように。それでも私はできるかぎりのことをした。そして、ガートルードがリボンで髪をかざる年頃をすぎ、ホールシーがネクタイピンをほしがり、長ズボンをはくようになると――おかげで繕(つくろ)いものの手間からようやく解放されたわけだが――この兄妹をちゃんとした学校に送りこんだ。その後は私の責任はもっぱら手紙を書くことで果され、毎年夏の三か月だけは、帰省した二人のため衣服を買いたしたり、彼らの交友リストに目を通したりで、おしなべて樟脳(しょうのう)袋をつけて九か月しまいこんでいた養母役の虫干しをすることになるのだ。
 やがて、それぞれ寄宿学校とカレッジに通う子どもたちが夏の休暇の大半を友人たちとすごすようになると、私は彼らと送った夏の思い出をなつかしむようになった。二人にしてみれば、小切手に署名した私の名のほうが手紙に添えた名よりはるかに歓迎すべきものらしいとわかってきたけれど、あいかわらず定期便を書き送っていた。しかし、ホールシーが電気科の課程をおえ、ガートルードが寄宿学校を卒業して、わが家でそろって寝起きするようになると、事情は一変した。ガートルードが帰宅した冬などは、夜半までかけて物事のけじめを彼女に教えさとし、翌朝はねむたい目をこすりながら仮縫いのため彼女を仕立屋につれていき、お金と頭脳はどちらが大切かなどと未成年者をさとしたりで、あっという間にすぎてしまった。
 私もいろいろと学ぶところがあった。下着のことをランジェリーといい、ドレスとよばず、フロックスとガウンズに区別し、大学の二年生になって髭をたくわえてない学生をカレッジ・ボーイでなくカレッジ・マンと呼ぶことなどだ。ホールシーのほうは妹ほど手がかからなかったけれど、その冬そろって亡母(なきはは)の遺産を相続すると、私の負うべき責任も純粋に道義上のそれに限られてきた。むろんホールシーは自動車を買った。で、私はボンネットを飛ばされないよう、その上からグレーのベーズ地のヴェールをかぶることを覚え、やがては、だれかがはねた犬を見かけても車を止めさせなくなった。最近は飼い犬を大事にしない、いやな傾向がある。
 こうして二人に成人教育をうけた私はほどよく仕込まれた未婚の叔母に成長し、春先までには、しごく御(ぎょ)しやすい女になってしまっていた。ホールシーが、この夏はアディロンダック山塊〔カナダとの国境に近いハドスン河の上流〕でキャンプを張ろうと提案し、ガートルードはバー・ハーバー〔ボストン北方メイン州の大西洋岸〕にしたいと言いだすと、ゴルフ・コースにほど近い快適な田舎の別荘を借りることで妥協することになった。市内から車でいけるし、電話で医者を呼べるほどの距離だった。これがサニーサイドへ出かけることになったいきさつである。

……冒頭より


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