「パリのクローディーヌ」

コレット/望月芳郎訳

ドットブック版 279KB/テキストファイル 143KB

500円

クローディーヌものの第二作。クローディーヌはパリのジャコブ街で、父と一緒にパリ生活をはじめる。暗くてわびしいアパルトマン暮らしである。別に大きな波乱があるわけではないが、パリの味気なさに心のかわいているクローディーヌが、性倒錯者のマルセルに興味をひかれ、さらにその興味は、マルセルの父のルノーへと発展して行く…心理作家コレットの面目がうかがわれる。

コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
 病気のため、おもい病気のため――ほんとにたいへんな病気にかかったものだとしみじみ思われる――中断されていた日記を、今日からまたつけはじめる。
 まだ完全になおりきってはいないようだが、発熱(ねつ)の時期、うちひしがれていた時期は過ぎ去ったようだ。無論、パリの人たちは、強いられるのでなければ、快楽のために生きているのではないと思う。いま私はようやく、この巨大な七階建ての箱のなかの出来事に興味をもちはじめた。
 この日記の面目にかけて私はなぜパリに出てきたのか、なぜモンティニイを、夢のようだった、なつかしいあの学校を去ったのか説明しなければならない。噂を気にしているくせにセルジャン女史がエーメをかわいがり続け、がその間、生徒たちはいたずらばかりしている、あの学校を。またパパがどうして自分のナメクジたちと別れるにいたったかを書かなければならない。そのほかも!……書きおえたら、くたくたになってしまうだろう! だって去年にくらべると私は背はちょっとのびたのだが、ずっと痩せてしまったから。一昨日から十七歳になったけれど、十六歳としか見えない。鏡に姿をうつして、私はほっとため息をつく。ほんとうだ!
 とがった顎(あご)さん、あなたはおとなしいけれど、おねがいだからこれ以上とがらないでね。淡黄色の眼さん、あなたはますますそうなろうとしているようね。とがめはしないけれども、まつ毛のかげであまり遠慮しすぎないようにね。口さん、あなたはいつでも私の口だわね。でもあまり血の気がないので、窓辺の赤いジェラニュウムのつみとった花びらで、短く青白い唇をこすってやりたくなるの。(でもそうすると、紫色のきたならしい色になるので、私はすぐになめてしまう)それからあなた、かわいそうな耳さん! 血の気のない、青ざめた小さな耳さん、私はあなたを捲毛(まきげ)の下にかくし、ときどきこっそりながめ、あなたが赤くなるようつまんでみる。でもとくに、私がふれると泣きだしたくなるのは髪だ……私の赤みがかった栗色の髪、きれいにカールした髪は耳の下で切られてしまった! 残った十センチの髪はできるかぎりのことをしようとしている。まるまったり、ふくらんだり、早くのびようとしているけれど、毎朝、首にシャボンをつけて洗う前、私は思わず髪を上にたくしあげるような動作をし、悲しくなってしまう。
 立派な髭(ひげ)をはやしたパパ、私自身とほとんど同じぐらい、あなたにはいらだちを感じるわ。あなたみたいな父はとっても考えられなかったわ! まあ聞いてちょうだい。
『フレーヌの軟体動物学』概論をほとんど書きおえると、パパはパリのマソン出版社に原稿の大部分を送ったけれど、その日からおそろしい《焦燥熱》にかかってしまった! どんなふうにですって! 朝、サン・ジェルマン街に送られた赤入りの校正(ゲラ)が、その晩にモンティニイに(汽車で八時間かかる)帰ってくるもんですか? ドゥシーヌ郵便配達夫はひどい悪口を聞かなければならなかった。「校正(ゲラ)も届けぬうすぎたないボナパリスト〔ナポレオンびいき〕め、寝取られ亭主めが。当然の報いだ!」植字工ときたらたまったもんではなかった! みっともない誤植をやったやつの頭の皮をひんむくぞとか、《ソドムの業罪をうけて当然の奴ら》〔ソドムは豪華淫乱をきわめたため、天の火で焼かれたという旧約聖書中の町〕などと呪う言葉は、一日じゅう家のなかに鳴りひびいた。家族の一員である、私の美しい猫のファンシェットすら、ふんがいして眉をつりあげたぐらいである。十一月は雨が多く、うっちゃらかされたナメクジは一匹一匹と死んでいった。ついにある晩、パパは三色の髭に手をあてて私に宣言した。「わしの本はちっとも進んどらん。印刷屋はわしをばかにしとる。パリに引越しをするのがいちばん利口(!)だ」この宣言に私はびっくりした。狂気の沙汰とも思えるあまりの単純さに私は唖然とした。よく考えたいからもう一週間待ってちょうだいと言うのがせいいっぱいだった。「急いでほしいんだ」と、パパはつけくわえた。「この家の空くのをもう待っているひとがいるんだ。ある男がここを借りたがっている」天真爛漫きわまる父親族の偽善さ! 父はとっくに、こっそり話をすすめていたのだ。私はこんな出発のおどしを予感していなかった!
 二日後、女史(マドモワゼル)のすすめで上級のブルヴェ〔ラテン語、ギリシャ語、初等教育等の資格免許〕を受けようかと漠然と考えていた学校で、のっぽのアナイスは私にたいしていつもより意地悪になりだした。私はがまんができず、肩をそびやかして言ってやった。「なにいってるのよ、もうながく私をかまうことはできないわ。ひと月したら、私はパリに行ってしまうんだから」とりつくろうことができなかった彼女の驚きようは、私をすっかりよろこばせた。彼女はリュスのところへ走っていった。「リュス! あなたの親友はいなくなっちゃうわ! クローディーヌがパリに出かけたら、あなたはさんざん泣かなければならないわよ。はやく髪をひとふさ切って、別れの誓いを交換しなさいよ。時間がちょっとしかないわ!」ぎょっとしたリュスは棕櫚(しゅろ)の葉のように手をひろげ、ものうげな緑色の眼を大きく見開き、はじらいもなく泣きだした。私はいらいらした。「気のどくだけれど、私は行っちゃうわ! あんたたちなんか、みな、なんとも思わないわ!」
 家に帰ると、決心のついた私は父に、もったいぶって「行くわ」といった。父は満足そうに髭をしごきながらいった。
「プラディロンがわたしたちのためにアパルトマンをさがしている。さあ、どこだかわからないけれどもね。本屋に近い場所なら、どこでもいい。おまえはどうだね?」
「私だって……どうでもいいわ」
 実際、私はなにもわからなかった。モンティニイの大きな家や、大好きな庭を一度も離れたことがないクローディーヌがパリでなにをすべきか、どんな場所を選んだらよいかなど、わかりっこないではないか? ファンシェットだって、なにもわからないだろう。でも私は興奮しないわけにはゆかなかった。私の人生のなかで重大なときはいつもそうだが、突然実行的になったパパ――いや、それではちょっと言いすぎる――突然活動的になったパパが大きな音をたてて、荷造りをするあいだ、私はうろうろしはじめるのだった。
 だれがなんといっても、私は森に逃げこみ、メリーのやけっぱちなぐちなど聞きたくなかった。

……冒頭より

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