「家庭のクローディーヌ」

コレット/倉田清訳

ドットブック版 251KB/テキストファイル 145KB

500円

「クローディーヌ」もの第3作。この作品の中のクローディーヌは、もはやこれまでのような、挑戦的で快活な、あの自由奔放なクローディーヌではない。内面生活が豊かになり、瞑想的になり、そして、夫から愛されながらも、時に孤独でさえある。クローディーヌは、この作品の最後において、自分の反抗する心をじっとおさえて、夫のルノーにすがりつこうと必死に愛の腕をさしのべている。しかし、その熱烈な求愛の言葉の中には、すでに絶望のひびきがどこかにある。

コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
 たしかに、私たちの家庭には、うまくいかない何かがある。ルノーはまだそれについてなにも知らない。どうしたらそれを知るだろうか?
 六週間前から、私たちは帰ってきている。あののらくらした、熱っぽい放浪はおわったのだ。十五か月のあいだ、私たちは浮浪者のようにバサノ街からモンティニィへ、モンティニィからバイロイトへ、バイロイトからバーデンのある村へ流れていった。私は最初、ルノーの大よろこびをみて、その村が《フォレーレン・フィッシェライ》〔鱒(ます)釣り場の意〕と呼ばれていると思った。なぜなら、川堤にはってある大きな張紙が、ここで鱒が釣れるといっているし、私にはドイツ語がわからないから。

 去年の冬、私は、あらがいながらもルノーの腕に抱きしめられて、つめたい風に逆波(さかなみ)をたて、太陽の突き刺すような光に輝く地中海を見た。あまりにも多くのビーチパラソルや、帽子や、ひとのために、あのつくりものじみた南仏は、私にはがっかりだった。それに、ルノーのたくさんの友人たちや、彼がよろこんで迎えるいくつかの家族や、彼が晩餐に招かれた家のご婦人連と、どうしても会わなければならないのにうんざりした。このいやな男は、みんなに愛嬌をふりまく。ほとんど知らないひとたちにことにそうだった。なぜなら、あつかましいほどの甘ったるさで彼が説明するのによると、ほかのひとたち、つまりほんとうの友だちに気にいられるためには、彼らを信頼して、自分の気持ちを押し殺すにはおよばないからだ……。

 私の素朴な心配性は、レースのドレスが黒テンの毛皮のコートの襟の下でこきざみにふるえるような、紺碧海岸(コート・ダジュール)のあの冬が、どうしても理解できなかった!
 それからまた、私がルノーを信用しすぎ、ルノーが私を信用しすぎたことが、私の神経をいらだたせ、私を路傍の小石にもがまんできない気持ちにさせた。そして私は、ある状態に追いやられ、引きずられて、肉体に酔い、ほとんど眩暈(めまい)して、なかば苦しく、なかば楽しかったが、とうとう赦(ゆる)しと、休息と、決定的な住居を乞い求めた。いま、私は帰ってきている! いったい何が私に必要だろうか? まだなにか欠けているのだろうか?
 まだほんの最近なのに、もうすでにとてもはるかなものになっている混乱した思い出をすこし整理してみよう。

 *

 私の結婚の日は、奇妙な喜劇だった! 婚約の三週間、夢中になって愛していたあのルノーとのたびたびの逢瀬(おうせ)、彼の困惑した眼、さらに困惑した態度(おもてにあらわしてはいなかったけれど)、いつも私をちょっと求める彼の唇、そうしたものが、あの木曜日、情熱に燃えた牝猫の鋭い顔つきを私にさせた。あのころ、私は彼のひかえめな様子をみて、なにもわからなかった! 彼が求めたらすぐに、私のすべては彼のものとなっただろうに。彼はそのことを感じていた。それなのに彼ときたら、自分の幸福にたいして――そして、私の幸福にたいしてもだろうか?――堅苦しすぎるほど気を配り、固く節度をまもるようにした。ほんの短いくちづけのあとで、道徳的な、そう、道徳的な時をひかえて中断されたくちづけのあとで、感情をむきだしにしたクローディーヌは、しばしば彼にいらだったまなざしを投げた。《一週間後だろうと、いまだろうと、いったいどうだというの? あなたはむやみに私をしりぞけ、おそろしく疲れさせる……》彼は、私たちふたりを憐れとも思わず、私の意に反して、あのいいかげんな結婚まで、私を無傷のままにしておいた。
 ルノーと暮す私の決心を、区長さんとか、神父さんとかに通知しなければならないことに腹をたてた私は、くだらないことでパパを助けることも、ほかのだれを助けることも拒んだ。ルノーはみごとな忍耐を示し、パパはふだんみられない、猛烈な、これ見よがしの献身的精神を発揮した。メリーだけが、恋物語の結末にくわわったことでいきいきし、小さな中庭の下水盤の上で悲しげな歌をうたい、夢見ていた。《フタの子供より美男子》〔フタは古代エジプトの神〕で、まだ弱々しいリマソンをつれた猫のファンシェットは、蓋のあいたボール箱や、新しい生地や、吐き気をもよおさせる自分の長い手袋をかぎまわり、私の白いチュールのヴェールをこねまわし、《パンをつくって》いた。
 私の首で、とても軽い金の鎖にぶらさがっている梨形のあのルビーを、ルノーは結婚式の前々日持ってきてくれた。思いだす、私は思いだす! あの明るいぶどう酒色に魅せられた私は、ひざまずいたルノーの肩に片手を支え、それを眼の高さで逆光線にすかして見ていた。彼は笑った。
「きみは目をくるくるさせているよ、クローディーヌ。ファンシェットが飛んでいるハエを追いまわしているときのようだ」
 彼のことばに耳をかさず、私は突然、ルビーを口のなかにいれた。(なぜなら、それがとけて甘酸っぱい野苺を感じさせるはずだったから!)
 宝石のこの新しい鑑定法にびっくりしたルノーは、翌日、ボンボンを持ってきてくれた。それは実際、私にとって宝石と同じくらいうれしかった。

……冒頭より

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