「罪と罰」

ドストエフスキー作/北垣信行訳

愛蔵版
エキスパンドブック(挿し絵入り2巻本) (上)924KB(下)730KB/【各500円】

普及版
(上)ドットブック 304KB/テキストファイル 216KB
(中)ドットブック 273KB/テキストファイル 183KB
(下)ドットブック 319KB/テキストファイル 239KB/【各300円】

貧しい大学中退生ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害し、行きがかりから、その義理の妹まで殺してしまう……。なみの犯罪小説や推理小説には及びもつかない迫真性と迫力で、ぐいぐいと読者を引っ張っていく、ドストエフスキー、ロシア文学、世界文学の代表作。悠長な記述などはまったくなく、リズムは急ピッチ、筋の展開は意表をつき、場面はめまぐるしくかわりながら、物語は息つく暇もあたえずに進行する。

フョードル・ドストエフスキー(1821〜81)モスクワのマリインスカヤ貧民病院の官舎で生まれる。17歳で陸軍工科学校に入学し、ホフマン、バルザック、ユゴー、ゲーテを耽読。24歳のとき発表した『貧しき人々』で一躍人気作家となった。しかし、1849年、出版の自由、農奴解放、裁判制度の改革について発言し、5年のあいだ投獄される。以後、海外生活を送りながら『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などの傑作を世に送り出した。81年、肺動脈出血により60歳の生涯を閉じた。

立ち読みフロア
 七月のはじめ、暑いさかりの、夕暮れも迫ろうとする頃、ひとりの青年が、S路地裏のアパートの住人からまた借りしている自分の部屋から表通りに出て、のろのろした、ためらいがちな足どりでK橋をさして歩きだした。
 運よくおかみとは階段で顔をあわさずにすんだ。彼の部屋は高い五階だてのアパートのちょうど屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚のような感じだった。女中つき賄(まかな)いつきで彼にこの小部屋を貸していた下宿のおかみは、ひと階段下の独立した住まいに陣どっていたので、彼は外出するたびに、たいてい階段にむかって明けはなしてあるおかみの家の台所のそばをどうしても通らなければならず、そのたびに青年はなにやら病的な、おどおどした気持ちになり、それが恥ずかしくて、顔をしかめるのだった。おかみには借りがずいぶんたまっていたので、顔をあわすのが怖かったのである。
 が、かといって彼はそれほど小心で臆病だったわけではなく、むしろその正反対だったのだ。それが、いつ頃からか、ヒポコンデリーに似た、いらいらした緊張した気分になっていた。あまりにも自分のなかに閉じこもり、みんなから遠ざかって暮らしていたため、おかみどころか、だれと顔をあわすのも怖くなってしまっていたのである。彼はたしかに貧乏にうちひしがれてはいた。が、その窮迫状態もこのところそれほど苦にならなくなっていた。彼はしなければならぬその日その日の仕事もすっかりやめてしまっていたし、する気もなかった。ほんとうのところは、おかみが自分にたいしてなにをたくらもうと、怖くはなかったのだが、階段でつかまって、自分にはまったく用のない、ありふれたばか話の百万陀羅を聞かされたり、例のしつこい支払いの催促をされたり、威(おど)し文句や泣き言を聞かされたりして、そのたびに言いのがれをしたり謝ったり嘘をついたりするよりは、――なんとかして猫のように階段をすべりぬけて、だれにも見つからないようにこっそり逃げ出したほうがましだと思ったのである。
 しかし、通りへ出たあとで今度は、自分はこうも貸主と顔をあわすのを怖がっているのかと、われながらあきれてしまった。
『あんな大事をたくらみながら、こんなつまらないことにびくびくしているなんて!』と彼は妙な薄笑いを浮かべながら考えた。『ふむ……そうだ……人間、何もかも自分の掌中に握っていながら、すんでのところでとり逃がしてしまうのは、ひとえに臆病のせいなんだ……こいつはもう自明の理だ……ところで、人間はなにを一ばん恐れるかだ。あたらしい一歩、自分自身のあたらしい言葉、人間はこれを一ばん恐れているのだ……それはそうと、おれはちょっとしゃべりすぎるんじゃないかな。しゃべりすぎるから、なんにもしないことになるんだ。いや、ひょっとしたら、なんにもしていないからしゃべりすぎるのかも知れないぞ。こういうひとり言をいう癖がついたのはここ一ヵ月の間だ。毎日夜昼ぶっとおしに部屋のなかでごろごろして……夢みたいなことを考えているうちにこういう癖がついてしまったのだ。それはそうと、おれは今なんのために歩いているんだ? いったいおれにあんなこと(ヽヽヽヽヽ)ができるんだろうか? そもそもあれ(ヽヽ)はまじめな話なんだろうか? いや、まじめな話などころか、ただ夢を描いて自分で自分を慰めているだけのことさ。おもちゃだ! そうさ、まあおもちゃってところだ!』

……第一編冒頭部

購入手続き/ 愛蔵版( )/ 普及版(  


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***